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此岸からの風景

<日本灯台紀行 旅日誌>オヤジの灯台巡り一人旅 長~い呟きです

2020

10/28

Wed.

10:21:27

<灯台紀行・旅日誌>2020 

Category【灯台紀行 新潟・鶴岡編

<灯台紀行・旅日誌>新潟・鶴岡編2020#2 往路

八月二十日(木曜日)、一日目。
四時ちょっと前に目が覚める。外はまだ暗い。目覚ましが鳴る前に、スイッチを切った。昨晩は、九時ころ消燈し、夜中の十二時ころにいったん起きて、お菓子などを食べた。夜間飲食は、悪い習慣だ。だが、最近、どうもやめられない。無性に食べたい。これは、ストレスから来るものだ、と何となく了解しているのだが。

昨晩は、旅前日の興奮も、わくわく感もなく、比較的平静だった。よく眠れたのだろう、今朝は眠くはなかった。整頓、洗面、かるい朝食。排便は、ほとんど出なかった。着替え、部屋の確認など、ゆっくりこなした。玄関へ行き、外へ出る前に、一応、振り向いて<行ってくるね>とニャンコに呼びかけた。切なさは全然なかった。習慣的な感じだ。外は明るくなっていた。

車の運転席に座り、ETCカードを機械に飲ませ、ナビを角田岬灯台にセットした。午前五時八分だった。最寄りのインターまで、見知った道を走り、高速に入った。平日のせいか、大きなトラックが目に付く。横からの朝日が眩しかった。むろんサングラスはしているが、百均で買ったサンバイザーも額につけた。朝日というものは、いいもんだ。生理的にも何がしかの効用が認められている。

習慣になっている、朝のコーヒーを、今朝は飲んでいない。標識のコーヒーカップが目に付く。ま、一時間は走ろう。渋滞情報で有名な<花園インター>付近までは、あっという間だった。次に藤岡ジャンクション、高崎、前橋の文字が出てくる。…高崎、前橋の文字を見ると、時として思い浮かんでくるのは、遠い昔、高校生時代の思い出の一片だ。

勉強もせず、深夜放送をよく聞いていた。群馬県の高崎高校と前橋高校は、ともに県内有数の進学校で、互いにライバル校だった。そこの生徒たちが、深夜放送へ投稿してくる。よくは覚えていないが、互いの悪口などを、面白おかしく書いてくるのだ。バスケ部で一緒の同級生も、その番組を聞いているらしく、教室でよくその話をして面白がった。

夜中の電波を通じて、今まで全く知らなかった、県外の、似たような進学校の生徒たちの、軽い話を聞いて、何か、親近感のようなものを感じた。たしか、パーソナリティーは<キンキン>だった。愛川欽也の軽妙な語り口もよかった。ただ、この思い出は、これだけでは終わらず、想念は、バスケ部の同級生にまで及んでいく。詳しくは、思い出したくない。ただ、彼は、若くして交通事故にあい、寝たきりになり、その後亡くなった、と誰かに聞かされた。

…前橋を通過すると、次は伊香保だ。なんでだろう、関越道下り方面には、思い出がたくさんある。地の利があり、夏や冬に遊びに行く場所なのだ。キャンプやスキー、旅行。それらの思い出には、人との関わりがあった。それゆえだろうか、どこか切なく、陽炎のような感じだ。自分も若かったし、関わった人たちも若かった。

おっと、長い上り坂だ。アクセルを少し踏み込んだ。かれこれ、一時間運転している。次のパーキングまで、少し運転に集中して、車を走らせた。赤城高原SAは、その名の通り、高いところにあった。かなり登ってきたのだ。駐車場は、さほど混んでもいない。トイレで用を足し、自販機でコーヒーボトルを買い、眺めのいい展望広場のようなところへ行った。家族連れなどが、ベンチを占領していて、朝っぱらから、子供たちが騒いでいる。

少し離れたベンチに陣取り、コーヒーを飲みながら、体の屈伸などをした。暑くはない。半袖の腕が少し涼しいほどだ。そうこうしているうちに、家族連れがいなくなった。柵際へ行って、一帯を眺めた。連なる山並み。案内板があり、その山々の名前が記してある。案内板と、本物の山々を見比べた。中で、気になったのは<武尊山>。よく見かける名前で、ぶそんやま、と読むのだろうか?なるほど、ほたかやま、と読むそうで、標高も2000m以上ある。日本武尊=ヤマトタケルノミコトの、武尊、という漢字が頭に残っていたのだろう。ちなみに、武尊山の山頂には、ヤマトタケルノミコトの像があるそうな。

時計を見たのだろう。六時半になっていた。一時間以上は走ったのだ。駐車場を後にして、坂を下ったような気もするが、そのうち、また、かなりきつい上り坂になった。月夜野、水上、谷川岳が近い。要するに、群馬と新潟の県境だ。トンネルの前に、チェーンの装着場があった。ふと記憶がよみがえった。そうだ、ここでチェーンをつけたことがある。難儀したよな。トンネルは、いやというほど、これでもかというほど長かった。もっとも、この時はこのトンネルが、あの関越トンネルだということを失念していたのだが。

トンネル走行には、細心の注意を払った。目線を真っすぐ、前方の車の、赤いテールランプを見続けていると、なんだか、頭がくらくらしてくる。このまま突っ込みそうだ。これはいつもの経験なので、目線を、トンネル右側についているオレンジ色のライトに、少しそらせて走ることにした。頭のくらくらは、少し収まった。

我慢の時間が続いた。トンネルを脱出?したあとは、長い下りで、その間、短いトンネルと幾つもくぐった。と、視界が開ける。湯沢だ。スキー場で有名な観光地だ。長いトンネル走行の後だけに、気分がいい。山の斜面が、ところどころ緑になっていて、リフトが見える。ホテルのような建物も見える。ここを通過するときにはいつも、スイスのようだ、と思う。とはいえ、むろんスイスに行ったことなどない。写真か何かで見たスイスの風景を思い出すのだろう。

この牧歌的な景色がしばらく続く。石打、六日町、と、この<六日町>だ。幼い娘たちを連れて、家族でスキーに行ったことがある。スキー自体は、初めてだったので、面白いどころか、不安で怖かった。ただ、家族でスキーという常識的な娯楽に関しては、さほどいやでもなかった。自分が、子供のころに経験できなかったことを、娘たちにしてあげられることに、何か意味があるような気がしていた。きっといい思い出になる、と。果たしてそうだったのか、今に至るまで娘たちに聞いたことはない。

…二時間以上走っている。二回目のトイレ休憩。たしか大和Pだったと思う。トイレだけの、小さなパーキングだ。車外に出ると、極端に蒸し暑い。日差しも強い。撮影用のロンTに着替え、顔と手の甲、指先に日焼け止めを塗った。時刻は七時半、とメモしてある。トイレで用を足し、すぐに出発。地形が変わって、高速道路の両脇には、緑の稲田が広がっている。それも延々と、きりがない。小出、小千谷と看板が出て来て、じきに長岡ジャンクション。関越道はここで終わり、北陸道に接続する。新潟方面へと、さらにひたすら走る。八時半、三回目のトイレ休憩。たしか三条燕のちょっと前の小さなパーキングだったと思う。ほぼついたな、と少しホッとしたような気もする。

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2020

10/25

Sun.

10:49:37

<灯台紀行・旅日誌>2020新潟・鶴岡編 

Category【灯台紀行 新潟・鶴岡編

<灯台紀行・旅日誌>2020 新潟・鶴岡編

<灯台紀行・旅日誌>新潟・鶴岡編2020#1 プロローグ1

さてと、今日は八月の十九日、水曜日だ。灯台紀行、三回目の旅は、新潟の角田岬灯台、山形の鼠ヶ関灯台に決めた。昨晩、燕三条のビジネスホテルに、二十三日の日曜から、二泊、予約を入れた。

…ほぼ予定通り、前回の三浦半島旅の画像補正と<旅日誌>は、二週間で終わった。画像補正は、選択枚数が少ないので、あっという間だった。<旅日誌>の方は、内容的に、多少の方向転換をしたので、つまり感じたことや思ったこと、考えたこと、事物や事柄を、もう少し正確に記述しようと思ったので、やや長くなってしまった。今在る<自分>にも触れてみようと思った。二泊三日の<旅日誌>が原稿用紙で100枚、長くなったゆえんである。

盆も過ぎ、依然としてコロナの感染者数も減らない。だが、もう限界だろう。やるべきことはやったのだし、また灯台巡りの旅をしよう。新潟の角田岬灯台へ行くことは、前々から心づもりしていた。ネット画像で見る、山の上から見下ろす灯台と海と空の景観。カネと時間をかけても、撮りに行きたい。文句なしだ。マップシュミレーションもほぼ完ぺきに済ませているし、どの位置から撮るのか、行ったこともないのに、完全にイメージされている。

片道270キロ、おおよそ四時間の行程。はじめは二泊するつもりでいた。一日目の午後に着いて、灯台周辺の下調べと撮影。二日目は午前・午後、ゆっくり撮影。三日目は帰路のみ。という大まかな計画だった。が、念のため、新潟県の灯台を調べなおした。以前とは、少し、灯台についての考え方が変わっていたのだ。つまり、灯台の景観が、撮影選択の絶対的基準ではなくなった。というか、さほど景観が期待できない、ありていに言えば、写真としてモノにならない灯台でも、ついでに寄れるものなら、観光気分で撮りに行こう、というわけだ。

翻って思うに、おおよそ、灯台は<…灯台>と<…防波堤灯台>に分類されている。<灯台>は陸地にあり、<防波堤灯台>は防波堤にある。当たり前のことだが、その形、フォルムにより分類するならば、この基準は絶対ではない。つまり<灯台>なのに、いわゆる<防波堤灯台>的な形をしているものもあれば<防波堤灯台>なのに、小ぶりながらも、いわゆる<灯台>の形をしているものもある。

<灯台の形>?一般的には、白い細長い、先に行くにしたがって、やや細くなっていく円柱で、てっぺんのドームの中に、レンズが入っている。一方<防波堤灯台的な形>?とは、こちらもかなり多様ではあるが、ある類型がある。つまり、前に書いたが<直方体を縦にして、その上に細長い円柱がくっついている。そのてっぺんには、円柱の直径よりやや大きい、平べったい台座があり、光を出す機械が鎮座している>という形だが、見れば、おそらく誰もが<ああ>と了解する形だ。とにかく、これまで<防波堤灯台>は、似たりよったりの形なので、よほどの景観以外、ロクに調べもせず、撮影対象から除外していた。あまりに数が多いのだ。

(2020-10-25 追記 <防波堤灯台的な形>の類型は、上記のもののほかにもう一つある。やや上の方、あるいは、真ん中辺が少しくびれた、いわゆる<とっくり型>である。この形もよく目にする。)

…せっかく新潟まで行くのだから、付近に寄れる可能性がある灯台や防波堤灯台はないのか?と、覚書などを見ながら、調べなおした。だが、やはり佐渡は別にして、角田岬灯台以外、新潟県の日本海側には、わざわざ行くほどの灯台はなかった。前回の三浦半島のように、すぐそばにあるのなら話は別で、観光気分でついでに、ということもあるが、残念ながら、どれもみな角田岬からは、かなりの距離がある。

と、<鼠ヶ関=ねずがせき灯台>の文字が、地図上にある。よく見ると、新潟県と山形県の、ほぼ県境だ。この灯台は、山形県の灯台の中で、唯一、行ってみたい灯台だった。灯台のすぐそばに、というか斜め前に赤い鳥居がある。珍しい!灯台と鳥居の組み合わせ、面白い光景だ。

調べた。角田岬灯台からは、およそ140キロある。住所的には山形県鶴岡市鼠ヶ関。むろん、付近にビジネスホテルはない。約40キロ離れた鶴岡駅付近にはたくさんあるようだが、遠すぎるだろう。ちなみに、この灯台は、自宅から400キロ以上離れた北東方向にある。車で行くつもりはなかったし、自分の体力では、一気に行くことなど、とうてい無理だろう。要するに、新幹線・レンタカーで行くしかない灯台なのだ。

ところで、山形の上、秋田県男鹿半島には、いずれコロナがおさまったら<新幹線・レンタカー>を使って、行くつもりだった灯台が、二、三、ある。有名な入道埼灯台と塩瀬埼灯台だ。宿まで決めている。その時に、鼠ヶ関灯台にも行ってみようかな、とぼんやりと思っていた。とはいえ、にわかに撮影の射程に入ってきた、この灯台のことを詳しく調べてみた。男鹿半島からは200キロもある。ついでに、というわけにはいかないのだ。おそらく、この鼠ケ関灯台は、そのためだけに、新幹線で鶴岡まで行って、そこからレンタカー移動となる。それまでして行く灯台なのか、と思っていた。

だが、新潟との県境、距離にして140キロ、半分は高速で、時間的には約二時間。一日目に角田岬灯台を撮って、二日目に行って行けないこともないな、と思い始めた。ベストは、灯台のある鶴岡に、二日目は泊まることだ。だが時すでにおそし。燕三条のホテルに二泊予約済み。140キロ行って、また140キロ、帰ってこなくてはならない。むろん、二日目は、戻らずに、鶴岡に泊まるという選択肢もある。コロナのキャンペーンで、宿代が安くなっているから、さして無駄にもなるまい。だが、この考えを実行しなくてよかった、と今では思っている。そのことは、あとで書こう。

さて、日付は、2020-8-19日水曜日だ。予約キャンセルは明日が期限。旅の日程を最終決定しなければならない。旅中の天気を念のため確認した。あれ~、日曜月曜、二日とも、曇りマークになっている。昨日までは、晴れマークだった。土曜日に準備、積み込みして、日曜日の早朝に出かけるつもりだったのだ。再度、燕三条方面の十日間天気予報を確認した。明日、あさってに晴れマークがついている。そのあとは、曇りと雨ばかり。

急いで、ホテルの予約状況をネットで確認した。幸いにも、明日、あさってと予約可能だ。決断した。前の予約をキャンセルして、新たに八月二十日、二十一日を予約しなおした。念のために娘に連絡して、ホテルの電話番号などをラインで送った。この時点では、まだ鼠ヶ関灯台へ行く決心はついていなかった。明日の撮影次第だ。

急遽昼過ぎから、旅の準備、荷物の積み込みを始めた。猛暑、汗だく。でも、さほど暑いとは感じなかった。およそ一時間で完了。三回目だから、手際がいい。これなら、今からでも出かけられそうだ。とはいえ、さすがにこれは自制した。暗くなってからの運転が、いやだったし、何しろ、心の準備がまだできていない。

一息入れて、シャワー。冷たいノンアルビールがうまい。明日からの旅の日程を、今一度考えた。今晩は夜の八時に消燈、明日は四時起き。五時出発。おそらく、九時に角田岬灯台到着。そのあと撮影。急な階段だったな。ネットで見た画像を思い出した。山登りになりそうだ。

その後、気になっていた鼠ヶ関灯台のことをまた調べた。ネットの掲載写真をじっくり眺めて、どの位置取りがベストなのか考えた。灯台正面から、赤い鳥居を入れて撮るのが定番だな。ほかに、浜から撮ることもできる。でも、問題は明かりの具合だ。行ってみないとわからない、とひとまず結論して、早めに夕食。予定通り、八時過ぎには消燈。いや、寝たのは九時過ぎだ。道順とか、しつこく、いろいろ調べていたのだ。

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2020

10/21

Wed.

12:40:44

<灯台紀行・旅日誌>2020 

Category【灯台紀行 三浦半島編

<灯台紀行・旅日誌>三浦半島編2020#14 復路~エピローグ

早めに、たぶん九時には寝ていたのだろう。夜間トイレが二、三回あったものの、昨晩のような物音に煩わされることもなく、比較的よく眠れた。

三日目
六時過ぎに起きた、と思う。洗面、身支度、整頓。七時過ぎまで待って、ロビーに下りた。思いのほか、人がいる。牛乳、ヨーグルト、クロワッサンもどきの菓子パン二個、オレンジジュースと野菜ジュースをゲットして、すぐに部屋へ戻った。

食欲もなかったけれど、菓子パンはまずくて、一個しか食べなかった。で、もう一個は、トートバックに放り込んだ。便意はなかったものの、頑張って、少し排便した。それと、歯ブラシ、ブラシ、髭剃りなどの<アメニティ>は、いただいた。もっとも、家に持ち帰っても、使う予定はない。いや、小さなチューブの歯磨き粉だけは、旅用に使うつもりだ。無駄な行為ではあったが、使わずに置いていくのも、なんだかもったいないような気がした。

今一度、整頓して、忘れ物がないか確かめた。一応、冷蔵庫をあけた。おっと、ビールがひと缶奥の方に隠れていた。ま、ビールが冷えないこと以外は、さほど不快なこともなかったな。一日目の、夜中の物音は、ホテル側の責任じゃない。それに、二日目戻ったときには、バスタオル類は、新しいものに交換されていたし、ベッドメイキングもしてあった。不満はない。

ロビーに下りた。受付には誰もいなかった。カードキーを返すつもりだったのだ。ま、いい。アイスコーヒーを機械から抽出した。正確に言えば、製氷機に紙コップを置いて、その中に手動で四角い氷を何個か入れ、その紙カップをコーヒーメーカーに置いたわけだ。と、隣に、ホテルの女性が来て、菓子パンの補充などをしている。ついでなので、カードキーを財布から取りだして手渡した。その後、砂糖などを入れていると、後ろの受付カウンターの中から、先ほどの女性の声がした。<チェックアウトでよろしいですね>だったかな?トンチンカンな質問だと思ったものの、そうですと答えた。

アイスコーヒーに蓋をちゃんとして、というのも、昨日、蓋をちゃんと閉めてなかったので、車のドアを開ける時に少しこぼしてしまったからだ。受付の前を通り過ぎると、なかから<ありがとうございました>という声がした。<お世話さま>と首をちょっと傾けて応答した。どうも、このホテルの従業員は、おばさんばっかしだな、と思ったような気がする。別に、若い女性がいい、というわけでもないが。

アイスコーヒーは、むろん車の中で飲むつもりだった。ナビを、あれ、どこに設定したのか、おそらく、海老名の下りパーキングだろう。出発した。いい天気だ。とはいえ、昨日よりは少し雲が多い。一般道に出る時に、上を見上げた。丘の上に大きなビルが、二、三棟建ってはいる。だが、ほとんどが、空き地だ。と、坂の下から、数人、人が歩いてくる。出社というわけか。それにしても、人数が少ない。ちなみに、ホテルの隣のビルも空いていた。

ナビに従って、横横線に入った。来る時よりは、混んでいる。ま、平日の通勤時間帯だ。そう、宿を出たのは、七時四十分だった。メモに記してある。とはいえ、さしたる渋滞もなく、新保土ヶ谷バイパスに入った。じきに東名との分岐、町田インターだろう、と思っていたら、渋滞の表示が見えた。要するに、東名に入るところで、渋滞しているのだ。急にスピードがおち、左側をのろのろ、そのうち、ぐるぐるのインターチェンジをゆっくり、三十分くらいかかった。

町田インターの料金所渋滞を過ぎると、視界が開けた。スピードは一気に90キロ。あっというまに海老名の下りパーキングエリアに着いた。コロナなど関係ないという感じで、普通に混んでいる。トイレで用を足し、長居は無用、すぐに出発。圏央道に入った。快調に走っていると、またもや渋滞表示。それも、青梅辺りのトンネルで故障車らしい。通過に一時間!おいおい、ウソだろう?

きっちり一時間、渋滞にはまった。途中、何度もトンネル内で、止まったり走ったりした。いやな感じだった。避難口を横目で眺めながら、以前テレビで見たのであろう、トンネル火災の大惨事の映像が、脳裏をよぎったりした。むろん、大丈夫だろうとは思っていたが。

いい加減飽きて疲れた頃、左に車線変更してくる車が急に多くなった。あれ~と思いながら、横からの車に注意しながら運転していると、目の前に、トンネルの出口がみえた。明るくなっている。と、右手に、大きなというか、巨大なトラックが止まっている。まさに、トンネルの出口を、半分ふさいでいるかのようだ。横を通り過ぎる際、高い運転席がちらっと見えた。若そうな男が、ふてくされたような、開きなおたような感じで座っている。そのシルエットがちらっと見えた。

ふざけた野郎だ!何百台何千台の車に迷惑をかけているのに、高いところで、エアコンをかけてのうのうと座っている。ま、そういうふうに見えたわけだ。一体全体、この渋滞の責任を、どう取るというのだ。むろん、渋滞の責任など、トラックの運ちゃんに取れるはずもないし、そんな責任も追及されないだろう。たまたま、運悪く、車が故障したのだ。ま、自分の車だって、高速道路上で故障しないという保証はどこにもないのだ。

スピードがあっという間に100キロ。それとともに、渋滞のことは忘れてしまった。時間は、十一時半ころだったろうか?今青梅だから、小一時間で自宅に着く。着いたら、持ち物・荷物をアトリエに入れ、ついでに洗濯もしてしまおう。前回の犬吠埼旅とちがって、二泊ということもあり、また、撮影方法を変えたので楽だった。ほとんど疲れていない。元気だ。むろん、眠くもない。ま、それにしても、最後まで気を抜かず、無事に帰ろう。座りなおして、ハンドルを両手で、八の字に持った。目の前には、梅雨明けした、夏空が広がっていた。

エピローグ
自宅には十二時過ぎに着いた。三浦半島に比べれば、ずっと内陸だから、暑さの質が違っていた。蒸し暑さが不快だった。とはいえ、すぐに、荷物・装備を車から室内へ移動して、整理、後片付けをした。より分けた洗濯物などを抱えて、二階に上がり、ドアを開けた時、一応、<帰ってきたよ>と声に出した。むろん、ニャンコに呼び掛けたつもりだった。だが、前回のような切なさは感じなかった。姿は見えないが、部屋の中に魂が溶け込んでいる。そう思いたかった。

エアコンを全開にした。パンツ一丁になり、洗濯機を回した。冷蔵庫の冷えたノンアルビールを、グラス注いで飲んだ。深いため息をついた。ほぼ全て予定通り、無事に帰宅したのだ。

三日目の出費。高速\3660、飲食\130。

今回の三浦半島旅の収支。
高速¥7600
ガソリン・総距離324k÷燃費16.3k=20リットル×¥130=¥2600
宿泊¥13150
その他食事等¥5200

二泊三日で、総合計¥29000。妥当な金額だと思った。

翌日からだと思う、いや、帰ってきた当日、あと片付けを終えて、ひと寝入りした後だったろうか?とにかく、画像の整理を始めた。今回は、600枚ほど撮った。どれもみな、一発勝負の写真だから、良否を判定するのが、比較的楽だった。つまり、使えそうな写真で、なおかつ、各灯台、各ショットの中から、ベストショットを見つければよい。念のため、次点も選択した。

前回苦労した、画像の補正作業は、枚数が少ないうえに、灯台の垂直水平に関する補正も、前回の多少の経験が役に立ち、何回もやり直すことはなかった。帰宅後三日ほどで、画像に関する作業は終了してしまった。

心づもりとしては、二週間後には、また次の旅に出たいと思っていた。だが、お盆が間に入っている。混んでるし、まだ暑いし、無理でしょう。その間は控えようと思った。だから、次の旅は八月のお盆明けだ。したがって<日誌>を書く時間は、二週間ほどある。二泊三日の<旅日誌>だし、前回に比べれば、枚数も少なくなるはずだ。ま、ゆるゆる書き始めよう。

<梅雨明け十日>過ぎれは、暑さもひと段落するだろう、とさしたる根拠もなく考えていた。ところが、その十日が過ぎても、暑さはおさまらなかった。それどころか、八月の連休を過ぎたあたりから、さらに暑くなり、しかも、コロナの第二波がやってきた。お盆前後は、まさに暑さの天井で、終日、ほぼ24時間エアコンつけっぱなし!浜松では歴代一位タイの41.1度を記録した。

ゆっくり構えすぎたのか、暑さのせいか<旅日誌>の方は、なかなか先に進まなくなった。よけいなことを書きすぎる、ということもあるが、それだけでもあるまい。つまり、やや、欲が出てきた。どういうことなのか、<旅日誌>の内実を、紀行文ないしはエッセーとして、もう少し自分の感じたことや考えたことを、正確に書いてみよう、ということだ。ふと、カフカの<城>を敷衍して、灯台巡りを、小説っぽくすることもできるかもしれない、などとも思った。

ま、いずれにしても、文章の内実、質を上げようというわけだ。いや、文章を書くという行為が、今の自分には合っている。というのは、数時間、あっという間に過ぎてしまうし、退屈な思いをしなくて済む。たいして疲れもしないし、飽きもしないで、充足した時間が過ごせる。いまのところ、ライフワークの<ベケットの朗読>より、面白い。だから<朗読>は休止しているのだが。

もっとも、<灯台巡り>とか<旅>とか、そういったキーワード≒主題があるから、モノを書く気にもなるのだろう。ただ漫然とパソコンの前に向かって、何か書こうという気にはなれないのだ。それに、<モロイ朗読>で文章の書き方を<ベケット≒安藤元雄>から学んだことが大きい。いや、低次元でマネしているだけだが、それでも、イメージを言葉で掬い上げていくことや、事物や事柄を正確に記述することなど、それ自体が面白い。

話がそれた、戻そう。<三浦半島旅日誌>は、時間的に余裕があったので<旅日誌>という主題から、しばしば脱線した。気の向くまま、ある事ないことを書き込んだ。同じ暇つぶしでも、写真を撮りに行ったり、チャリで入間川の土手を走ったり、といった野外活動は、この炎天下、全然やる気にはなれない。さりとて<モロイ朗読>に戻る気もしなかった。あと三話で終了だというのに、最大限の集中を求められる<朗読>は気が重かった。

目の前のカレンダーを眺めながら、<旅日誌>は盆明け翌週の前半までに書き上げればいい、と思った。それからは、週二日のジム通い以外は、エアコンのきいた自室で、毎日、三、四時間ほどパソコンに向かった。書くのに飽きたら昼寝。夕方からは<プライムビデオ>で、比較的新しい外国映画の話題作を見て楽しんだ。ほとんど、人とは話さなかった。話す必要もなかったし、話したいとも思わなかった。

もっとも、一日おきに<花写真>や<旅日誌>などをSNSにアップしていた。<イイネ>に対しての<お返しイイネ>が、人恋しさを和らげ、人類と関わっているような気にさせてくれる。それはそれでいいだろう。さほど、煩わしくはないのだから。いやそれどころか、未知なる人の言葉や画像を見ることが、こちらにとっては、よい意味での気分転換になっている、のだから。

追加 左親指の顛末。

爪の怪我は、旅の初日こそ、少し気になったものの、二日目には、押しても、それほど痛くなかったような気がする。よかった、と思った覚えがある。ちなみに、今現在、親指の爪は、<月>の部分が真っ黒になっている。その黒が、爪の先の方へと、少しずつ拡大している。強く押しても全く痛くないが、見た目には、どことなく痛々しい感じである。

<灯台紀行・旅日誌>三浦半島編、終了。

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2020

10/18

Sun.

11:01:33

<灯台紀行・旅日誌>2020 

Category【灯台紀行 三浦半島編

<灯台紀行・旅日誌>三浦半島編2020#13 戦争遺跡2

駐車場の隣というか、上はレストランだった。近寄って、中を見た。大きなガラス窓の向こうに海が見える。何か、一度入ったような気がした。遠い記憶がかすかによみがえった。あまり思い出したくない女の顔も思い浮かんだ。赤帽の仕事でこの辺に来た時、不相応にも、一人で寄ったのかもしれない。横須賀の原潜や<軍艦三笠>を見物したことは確かなのだ。あり得ないことじゃない。

レストランの隣は博物館だった。その間に通路があって、奥に青い芝生が見えた。カラフルな遊具もあった。とはいえ、立ち入り禁止の張り紙。博物館も、閉館しているようで、静まり返っていた。と、視界が開けて、砂浜。海水浴場になっている。人がたくさんいる。向いに、大きな駐車場も見える。ちなみに、この砂浜は<たたら浜>というらしい。

博物館に沿って、遊歩道があった。見ると、すぐ目の前の海の中に、大きな円柱状の物体が見える。海からの高さは二メートルほどだろうか。その左横に、少し距離を置いて、長さは同じくらいの、細長いコンクリの角柱もある。こちらは杭のような感じ。とはいえ、なんでこんなところにあるのか理解できない。これもまた、遺構なのだろうか?…帰宅後ネット検索。角柱の方は、やっぱり!旧日本軍の研究所?があった頃のもので、船を繋ぐ杭だったらしい。円柱の方は、この場所に、本格的な桟橋でも作ろうとしたのだろうかと、専門家でもよくわからないそうだ。

海沿いの広い遊歩道を歩いた。左側は高い土留めコンクリ、その上に建っている、レストランや博物館はほぼ見ない。とはいえ、土留めの上は植え込みで、白い花がところどころに見える。青い太い茎の先に咲くハマユウだ。なるほど、この時期、浜辺によく似合う植物だ。さらに行くと、行き止まり。小さな花壇になっていた。結局、遊歩道からは浜辺、というか岩場には下りられなかった。

その行き止まりの花壇には、先客がいて、大きなカメラをお花に向けていた。白いハマユウとオレンジ色のカンゾウだろうか、海風に揺れている。先客のことは、ほぼ無視して、花壇の一番端に行って、海の中の遺構を撮った。水平線と、円柱の垂直は、こちらの方が、さっきの見晴らし公園より、多少はマシだった。手前に、ハマユウやカンゾウなどの植物を入れた。だが、ピントは遺構に合わせているので、お花たちはボケボケだ。遺構はかなり離れていて小さいし、お花たちとの距離はかなり近い。得意な35㎜のパンフォーカス(手前から無限大までピントを合わせる方法)がきかない。しようがないだろう、主役は海の中の遺構なのだ。

この花壇からの、ベストポジションは、おそらくここだろう。柵から体を乗り出して、ベストの写真を撮ろうと、集中した。暑さは感じなかった。巨大な雲が、房総半島の上にかかっている。夏雲だ。大きな貨物船が視界を横切る。ファインダー越し、何もかもがはっきり見える。さらに、望遠を取りだして、遺構をズームする。と、風化したコンクリの隙間に錆びた鉄筋が見えた。青い海の中、朽ち果てながらも、確たる存在感。どのような目的で作られたのか、この時は皆目見当もつかなかったが、そんなことはどうでもいい。遺構が目に、頭に焼き付いた。

望遠カメラを、バッグにおさめた。今度は、地面にそっと置いた、手になじんだ標準ズームを首にかけた。海や雲や青空、房総半島や貨物船などを見ながら、柵沿いに少しずつ移動した。今この瞬間に見える、すべての光景、すべての風景を、カメラに収めた。いちいちモニターなどしなかった。写真に撮れていようがいまいが、この目で、ここ身体でしかと見たのだ。来てよかったと思った。思い切り息を吸い込んだような気もする。

引き上げよう。海辺の小さな花壇は、少し暗くなり、人の姿もなかった。時間的には、三時半ころだったと思う。コンクリの遊歩道を戻った。ハマユウが塀際に咲いている。<たたら浜>には、まだたくさんの海水浴客がいた。遠目ながら、女性の水着姿が、眩しかった。それと、海から突き出ている、ぶっとい円柱を改めて見た。シュールだなと思った。暑いことは暑いが、耐えられないほどでもなかった。陽が陰ってきた。

駐車場に戻り、車のバックドアを開けて、着替えた。またまた、汗びっしょりだった。カメラバックを背負う以上、背中に汗をかくのは、ま、致し方ないとしても、足の甲の日焼け湿疹は、やはり、灰色の皮革ウォーキングシューズのせいだろう。どうしようか、白い靴に変えればよいのか、よくわからなかった。

ちなみに、帰宅後、面白い知見を、テレビから教授された。それは、今現在、甲子園で行われている高校野球の球児たちのスパイクことだ。これまでは、黒と決められていた。が、今回からは、全員が白いスパイクをはいている。理由は、靴の中の温度が、十度以上違う。むろん、白い方が低い。やはりな、と思って、白い靴をネット検索した。当然のことながら、みなスニーカーばかりだ。

平場やアスファルトの上を歩いたり走ったりするスニーカーに、用はない。撮影用の靴は、軽登山靴か、あるいは、比較的底のしっかりした、滑らないウォーキングシューズだ。ま、どう考えても、どちらにも白はないだろう。仕方ない。愛用の軽登山靴を、次回は試してみよう。以前、入間川を歩いていた時、軽登山靴を履いていて、足の甲に日焼け湿疹ができたことは一度もないのだから。

サンダル履きになった。足の甲が赤くなっていて、かなり痒い。駐車場の敷地外にある、構えのちょっと立派なトイレで用を足し、自販機でスポーツ飲料を買って歩き飲みした。ナビを宿にセットして、車を出した。出るとき、例のやや尊大な白髪のおじさんが、愛想よく<ありがとうございました>と首を下に振った。自分も、ちょっと振り向いて<ありがとうございました>と言葉を送った。

エアコンの吹き出しを、顔と足元にしたので、足の甲に涼しい風が来る。気持ちよかった。ナビに従って、朝来た道を戻った。途中、朝、高校生たちの行列を見た歩道橋の前で、信号待ちした。今度は、目線の上の方に、横一文字の歩道橋が見える。二、三人、女子高生が歩いている。腰から下は、アクリルだろう、不透明な目隠しがついている。下からのぞいても、女子高生のパンツは見えない、というわけだ。そういった配慮を、どこの誰が陳情したり、実行したりしているのだろう。いや、それよりも、見えるものなら見てしまうという、スケベな男がゴマンといるわけだ。オヤジの自分でさえ、そうなんだ。ま、生きている証拠かな。

ほどなく、見覚えのある広い道路に出た。すぐ先、左側に<すき家>が見える。昨日の店内飲食で懲りていた。今日は、お持ち帰りにしよう。牛丼の大盛を頼んだ。さほど待たされることもなく、¥490払って、すぐに店を出た。宿は、目の前に見えるトンネルを登れば、すぐだった。

宿の駐車場に着いた。五時、とメモには記してある。たしか、ロビーで、オレンジジュースとアイスコーヒーを抽出して、部屋に持ち帰ったような気がする。すぐにシャワーを浴びた。頭も洗った。風呂上がりのビール!と気分良くいきたいところだが、ぬるくてがっかりした。塗装が変色している小型冷蔵庫、冷えないんだ。

テレビをつけて、その前で食事。牛丼は、まだ少し暖かくて、意外にうまかった。牛丼のお持ち帰りは、汁が御飯に浸み込んで、ふやけてしまい、食えたもんじゃない、という経験をしている。それに<すき家>の牛肉は<吉野家>に比べると、味が落ちる。この二つの持論が覆った。ご飯は多少ふやけていたが、まずくはなかった。上に載っている牛肉も、ま、いい味だ。大盛だから、それなりのボリュームもあり、満足した。この歳で旅に出て、夕食が、五百円程度の牛丼!だが、みじめだとは思わなかったし、貧しいとも思わなかった。

二日目の出費。駐車場代¥880×2、灯台参観料¥310、飲食¥800、宿二泊¥13150。合計は、帰宅後だ。

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2020

10/14

Wed.

10:46:11

<灯台紀行・旅日誌>2020 

Category【灯台紀行 三浦半島編

<灯台紀行・旅日誌>三浦半島編2020#12 戦争遺跡1

蒸し暑い山道を、さらに行くと、標識があったような気がする。浜辺へ下りる道は、通行止めだった。反対側の道は、山の中へ向かっている。砲台の遺構があるようだ。少し山道を登ると、平場に出る。何やら、レンガのトンネルが見える。辺りは鬱蒼としているが、木洩れ日で明るい。緑の葉っぱがきれいだ。

…この辺りは、旧日本軍の砲台跡が点在しているようだ。来る前にネットで画像を見た。戦跡に、興味がないわけではない。ただ、写真としては、なかなか難しい。今回もそうだ。あらかじめ知っているから、山の中に残されている、大きなコンクリの構造物が砲台跡とわかるわけで、いくら見回しても、その本来のイメージは浮かんでこない。軍事機密であったのだから、当時の写真などは出回ってないのだろう。

だが、真夏の蒸し暑い、緑に囲まれた静寂の中で、その雰囲気を楽しんだ。と、後ろから、男の大きな話し声が聞こえた。カップルだ。砲台の台座のようなところに登って、やり過ごす。そばに人がいるにもかかわらず、大柄な男は、この砲台跡のことを、小柄な、地味な彼女に、得意げに話している。そのうち、レンガ造りの短いトンネルの前で立ち止まった。彼女の方が、通り抜けることを少し嫌がったのだ。短いとはいえ狭いトンネル。気味が悪い。

大柄な男が、彼女を説得している。少し嫌だと言い張ったが、男の勢いに負けて、二人してその短いトンネルを通り抜けていった。トンネルの向こう、明るい緑の中に、手をつないで坂を下りていく二人の姿が見えた。廃墟巡りとか、趣味が同じならともかく、デートコースとしては、どうなんだろう。女の子を連れてくるような場所でないことは確かだった。

広い、坂道を下った。視界が開けて、一般道に突き当たる。左手には海、右手にはトンネル。あれ~と思って、そばにあった案内板を眺めた。一般道へは出ないで、右手の山道を登っていけば、灯台に戻れそうだ。途中に砲台跡もあるらしい。この暑いのに、せっかく下ってきたのにと思いながら、ゆっくりと、また登った。登り切ったところにも標識があり、その案内に従って、右に行くと、砲台跡に出た。かなり規模が大きい。

さっきと同じようなレンガ造りのトンネルも見える。ただ、こっちのはかなり長い。しかも、入口に金属製の柵があって、立ち入り禁止。かりに、トンネルを通り抜けられるとしても、いったいどこに出るのか見当もつかない。とはいえ、緑に囲まれたトンネルは、静かで、いい雰囲気だ。

向き直ると、正面は小高くなっている。視界はない。だが、なるほど、そこに大砲が置いてあったのね、とわかるような感じのコンクリの構造物があった。陽が当たっていたし、足場も悪そうなので、少し興味をそそられたが、登らなかった。登れば、おそらく、眼下に浦賀水道が見えたかもしれない。そんな感じの砲台跡が、距離をあけて、三つくらいあったような気がする。岬の上から、航行する船舶を狙う大砲が、何門も見える。少しイメージがわいてきた。

砲台跡に沿って、坂を下っていくと、何やら施設に出た。案内板を読むと<東京湾海上交通センター>。先ほど、観音埼灯台から見えた、レーダー塔の下に出たわけだ。…あらためて、今調べてみると、浦賀水道を航行する船舶の管制塔のような役割を果たしている。それにしても、休みなのか、人の気配が全くしない。日陰を見つけて、着替え、給水。とは言え、すぐに蚊に食われた。汗の臭いに寄ってきたのだ。

ところで、案内板通り、この施設の横から、灯台へと至る山道があった。ところが、ここも通行止め。どうする?今一度標識をまじまじと眺めた。左は今下ってきた道。右は観音崎園?下り道だ。灯台に戻れない以上、どう考えたって、下るしかないでしょう。たとえ、とんでもないところに出たとしても、そのあとは平場を歩くわけで、今来た山道をまた上ったり下りたりするよりはましだ。

やや疑心暗鬼のまま、山道を下った。と、木々の隙間から、海辺が見えた。少しホッとした。さらに行くと、幸運なことに、浜のキャンプ場に出た。そう、灯台に行くときに通った、あのキャンプ場だ。つまり、駐車場のすぐ近くにおりて来たのだ。関根二等兵帰還!カメラバック=背嚢を背負って、岬を彷徨った、日本兵のような気がしないでもなかった。

下界は、とんでもなく暑かった!キャンプ場の脇を歩いていくと、赤い自販機があった。思わず、コーラを買ってしまった。ふと見ると、そばに炊事用のやや大きめな流し台があって、排水された水が、砂地に流れ出ている。キャンプ場でよくみられる光景で、ぞっとするほど汚らしい光景だ。排水で、色が変わった砂地を目で追っていくと、キャンプに来た女性が楚々として海を見ている。なんなんだか!そくそくと、その場を後にして、駐車場へ向かった。

車の中は、蒸し風呂。すぐにエアコン全開、窓にシールドを張った。服を脱いで、横になった。少し眠るつもりで、耳栓もつけた。目をつぶり、この後の予定を考えた。まだ一時過ぎだった。ふと気になって、スマホで大黒ふ頭付近の灯台を調べた。一つ、二つ、撮ってみたい防波堤灯台があった。行ってみようかな。起き上がって、耳栓を抜いて、運転席に移動、ナビで検索した。

ところが、けっこう距離があり、時間も一時間以上かかる。是が非でも撮りたい灯台でもない。ま、次回にしよう。例えば、千葉の野島埼灯台を撮りに行くとき、ちょこっと寄ってみるという手もある。高速を、途中の大黒インターで降りればいいんだ。ま、それよりは、さっき見た、海の中にある、正体不明の遺構だな。これも少しスマホで検索した。だが、よくわからなかった。

そんなこんなで、昼寝はできなかった。時計をみた、一時半だ。さほど眠くもないし、疲れてもいない。身支度して、ナビをセット、出発した。駐車場を出て、左方向。すぐにトンネル。さっき、山道を下りたところにあったトンネルだ。通り抜けると海が見える。左側に博物館の駐車場があった。ガラガラ。¥880!高いなと思いながら、アルバイトだろう、ちょっと尊大な白髪のおじさんにカネを払い、海の中の遺構のことを聞いた。よく知らないらしく、詳しくは聞けなかった。ただ、その辺にあることは間違いないらしい。

車から、外に出た。午後になって、ますます蒸し暑くなっていた。駐車場背後の階段を登ると、ちょっとした、見晴らし公園になっていた。海が見渡せる。草ぼうぼうの中に、ベンチなどもある。視界の左の方が観音崎。その下に、あったよ!例の遺構だ。海の中に崩れかかったコンクリの円柱が見える。…帰宅後にネット検索すると、<水中聴測所>?と出た。旧日本軍の施設で、潜水艦の音を聞くものらしい。敵の潜水艦が浦賀水道に侵入してくるのを警戒していたのだ。いまは自衛隊の管轄になり、立ち入ることはできない。なるほどね。

早速写真を撮ろうと、ベストポジションを探しながら移動した。だが、水平線と、円柱の垂直を出すのが、場所的に難しい。それでも、円柱に吸い寄せられるように、縦長の公園の端まで来た。すぐそばのベンチで、おじさんが、この炎天下、本を読んでいる。まあ~、シカとして、腰の高さほどの柵に寄りかかりながら、何枚か撮った。とはいえ、モニターすると、垂直・水平が取れていない。許容範囲を超えている。場所的に無理なんだ。

しつこくは撮らないで、今度は海の方を眺めた。空の様子がいい。ボニュームのある雲が、対岸の陸地・房総半島に沿って、低くかかっている。狭い青空、太い横一文字の雲、高い青空、という構成の、素晴らしい景色だ。時々大きな船も通り過ぎていく。見える範囲をすべて、アングルを変えながら撮った。

引き上げる際に、さして広くもない見晴らし公園を見回した。短パンの読書おじさんが本を手に持って立ち上がっていた。もう一人、痩せた、オタクっぽい若者が、端の方で、スマホを海に向けていた。その後姿が暗い。このすばらしい景色とは合わないな、などと思いながら、そうだ、海辺にまわりこんで、今一度あの遺構を撮ってみよう。かなり気になっていたことは確かだ。

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2020

10/11

Sun.

10:08:24

<灯台紀行・旅日誌>2020 

Category【灯台紀行 三浦半島編

灯台紀行・旅日誌>三浦半島編2020#11 観音埼灯台撮影

ふと、目をあげると、坂の上からおじさんがおりてくる。手に小さなカメラを持っていたような気もする。その先に、観音埼灯台が、木々の深い緑の向こうに見えた。灯台敷地より、十メートルほど手前、坂の途中だ。ネットで見た限り、写真はここからがベスト。ベストといっても、灯台の右側には建物があり、左側は、すっからかんの空間、海は見えない。だあ~っとした景観は望むべくもなかった。むろんそれを承知で来ている。

立ち止まって、しつこく撮った。木々の枝が白い灯台の胴体にかかってしまう。緑の葉っぱだから、まだいいが、それにしても、邪魔は邪魔だ。しかし、その木々を避けて、灯台に近づけば、横の建物がよけい目について、まったく絵にならない。この場所で、最良のショットを撮るしかない。

粘っていると、お迎えが近い?小柄な老人が目の前を通り過ぎていく。手に小さなカメラを持っている。灯台を撮りに来たのか、と思いながら、よろよろ歩いていく老人の後姿を一枚撮った。さらに見ていると、入り口で、ちょっと立ち止まり、灯台を見上げている。その黒いシルエットが、ちょうど、白い灯台の胴体の中に入り込んで、目立つ。さらに、敷地に入り、建物の方を向いて、入場料を払っているようだ。それが終わると、ゆっくりと灯台の根本に向かって歩いていく。何しろ、ずっと灯台と自分との線上にいるのだ。

そして、やっとのこと、画面から消えたと思ったら、今度は、その老人が消えたあたりから人影が出てきた。画面越しに見ていると、どんどん近づいてくる。黒い服のおばさんだ。灯台の受付だろうな。とうとう、敷地から出て来た。手にしているのは携帯用の掃除機なのか、入口手前の、コンクリのタタキの隅まで行って、そこにたまった葉っぱなどを吹き飛ばしている。掃除をしているわけだ。その間も、シカとして、灯台を撮っていた。

おばさんの姿も消えて、静寂が戻ってきた。今一度、人影のない、新緑の枝がかかった白い灯台を撮った。撮れたような気がして、満足だった。ふと我に返ると、小指辺りを蚊に食われたらしい、痒い。そうだ、忘れていた。何しろ蒸し暑くてかなわない!

受付で¥310払った。その際、おばさんに、隣の資料室は撮影禁止ですから、とややつっけんどんに言われた。悪意を持っているわけではない。顔つきをみて、そういう口の利き方とする人間なんだと了解した。イラっともしなかった。資料室か、帰りに寄ってみよう。その入口の前にベンチが置いてあったような気がする。そこは日陰になっていた。カメラバックをおろし、着替えた。お決まりのように、汗びっしょりだった。上半身裸のまま、給水して、一息入れた。そのあと、海の方を、しばらく眺めていた。

さてと、灯台に登ってみるか。立ち上がった。灯台の裏側は日陰になっている。そこに腰かけがあるのだろうか、こちらからはよく見えないが、例の老人が座っている。手にしたカメラを沖の方へ向けている。依然として、他人の存在をまるで意識してないかのようだった。邪魔しないように、反対側へ行った。灯台の横。炎天下だ。そこに、何か展示してある。

一つは、白い大きなラッパが三本、扇方に広がっている。これはすぐにわかった。このラッパから霧笛を出していたんだ。二つ目は、これまた白い、ドーム型の灯台の頭で、中にレンズが入っている。これらはきっと、先代の観音埼灯台の遺品だろう。勝手にそう思って、説明書きなどは読まなかった。そのかわり、ぐるりと一回りして、ベストショットを狙った。この二つの真っ白な遺品は、オブジェとしても、カッコいい。

と、その隣に、正体不明の物体がある。ちょっとくびれたコンクリの円柱だ。気にかけなかったが、ふと寄って見ると、海図のようなものが表面にある。いや、海図かどうか定かでない。とにかく、灯台の遺品であることに間違いはない。だが、それがなんであるのか、確かめもしなかったし、写真すら撮らなかった。造形的に、魅力を感じなかったのだ。

ところで、岬の先端部、炎天下の、日陰のない灯台の前は、頭がくらくらするほど暑い。海風が少し吹いているものの、全然涼しくない。とはいえ、ここまで来た以上は、灯台の正面を、写真に収めていくべきだろう。たとえ、それが、写真的にはモノにならないとしても、一応は、ベストを尽くすべきだ。そういうわけで、狭い敷地の端を、少しずつ移動しながら、丹念に灯台を撮った。

だが、灯台との距離が取れないばかりか、両脇はスカスカで、なんとも間の抜けた構図ばかりだ。24㎜というかなりの広角でも、引きが甘く、おもわず魚眼レンズを買ってみようかとさえ思った。が、これはさすがに自制した。両端がゆがみすぎて、風景写真には不向きなのだ。さらには、禁じ手を破って、縦位置で何枚か撮った。結果は余計悪い。自ら決めた禁じ手をあっさり破ったことを、少し後悔した。

暑い!を通り越していた。もう限界だ。これ以上は、熱中症の危険がある、と自らを戒めて、撮影を終えた。灯台の裏側に回った。老人が腰かけていたところだ。日陰で、海風が心地よい。給水し、上半身裸になり、汗びっしょりのロンTを二枚、灯台の敷地を囲っている低いコンクリの塀に干した。靴を脱ぎ、靴下も脱いだ。足の甲が赤くなっている。痛痒い。

はあ~、一息入れよう。建物の縁に添った木の腰掛だ。正面は海。なんだか船が多い。大小さまざま、行きかっている。それにしてもと思って、ふと気づいた。浦賀水道だ!となれば、向こうに見えるのは房総半島。要するに東京湾への入り口だった。はは~ん、あの老人が、カメラを向けていたのは、この光景か。てっきり灯台を撮りに来たのかと思っていたが、ここに座って、浦賀水道を航行する船を撮っていたんだ。

カメラバックから、望遠を撮りだした。なるほど、いろいろな形の船があって、面白い。しばらくの間、ゆっくり視界を横切る、おもちゃのような船舶を、断続的に撮った。じきにそれにも飽きた。ロンTが乾くまで少し休憩だ。そう思って、座り姿勢のまま、首をうなだれて目をつぶった。何組か、観光客が目の前を通り過ぎて行った。上半身裸、素足。でも長い綿マフラーを首にかけている。乳首は見えない。それに、両脇に、これ見よがしにデカいカメラを置いてある。写真を撮りに来て休んでいるのか、と誰が見ても納得するだろう。

そのうち、目をつぶったまま、ふと思った。ロンTを干しているのが、景観を汚している、と不快に思う人がいるかもしれない。さっき通った、親子連れの若い父親が、堂々と干してあるロンTを見て、苦笑していたではないか。かまうものかと、一方で思ったが、比較的目立たない、端の方へ移動した。なんでそんなことにまで、気を使わなくちゃならないんだ。よけいな配慮が多すぎる。

狭い縁に腰かけただけの、窮屈な姿勢でも、ふっと体の力が抜けたように感じた。三十分くらいたったような気もする。十一時だった。裸足で、塀に干したロンTを取りに行き、身支度をした。ロンTは生乾きだった。気分が少し良くなっていた。観光気分で、まず灯台に登った。それが狭い螺旋階段で、やや窮屈な思いをした。内側の壁に、全国の有名灯台の写真が、ずうっと飾ってある。登りながら見る余裕はない。何しろ狭いんだ。

登りきったところに、これまた狭いドアがあり、腰をかがめて外に出た。グルっと回れるようになっている。ただその通路も狭い。幅五十センチくらいだろうか、人ひとりがやっと通れるほど。正面は、日が当たっていて暑い。裏側に回った。日陰で、海風がいい。柵に肘をかけたのだろうか、眼下に、来るとき通った遊歩道が見えた。そこに若者たちが五、六人ぶらぶらしている。豆粒のようだ。向い側の、深い緑の丘には、鉄骨の無粋な塔が見える。レーダー塔だろうな。

しばらく、下界を眺めていた。南西方向の海の中に、人工的な構造物がある。何かの遺構だろう。見に行ってみるか。下りようとしたら、さっきから来ている熟年の夫婦連れと、狭い入口のあたりで鉢合わせになった。おばさんの方は、扉の前にいるので、自分が扉から出られない。要するにすれちがいできないのだ。すいませんと言って、彼女をバックさせた。

いや~ここまで書いてきて、前後の時間を間違えていることがはっきりした。というのも、その後、この熟年夫婦は、腰掛で休憩している自分の横に来て、少し休憩していったのだ。つまり、灯台に登ったのは、腰掛けで休憩する前だったわけだ。熱中症の危険を察知して、撮影を中止した後に、灯台に登ったわけで、灯台の内部は日陰だから大丈夫だろう、と思ったような気もする。どうでもいいことだが、気持ちが悪いので、訂正しておく。

とにかく、灯台見物は終わり。最後は、受付のある建物、資料室に寄ってみた。<撮影禁止>とおばさんに言われた場所だ。ごたごたといろいろあって、エアコンも効いていない、蒸し暑くて薄暗い部屋だ。ざっと流して出るつもりだった。と、灯台の模型がある。下の方に、手でぐるぐる回す把手がついている。なにかと思って近寄ると、昔の灯台の、発電の実験模型だった。

何々、昔の灯台守は、日中に200キロ近い重りを手でぐるぐると、何時間もかけて上へ巻き揚げ、夜になると、その重りの落下するエネルギーを使って発電機を回し、灯台を光らせていた。したがって、かなりの重労働だった。わかったような、わからないような感じだ。ま、とにかく、その把手をつかんで、ぐるぐるすると、紐にくっついている黒い重りが、上の方へ巻き上げられた。そのあと、今度は、把手をさっきとは逆向きにぐるぐるすると、巻き上げられた重りがすこし落下する。その瞬間、模型の灯台の目が光った。昔の灯台守って、そんなことをやっていたのか、となんだか不思議な気がした。...昔の灯台守については、そのうちちゃんと調べてみたい。

帰り際、受付の奥から、おばさんの声がした。<ありがとうございました>。声の感じが、普通に聞こえた。自分も、顔をちょっと向けて<ありがとうございました>と返した。敷地を出ると、道が二股に分かれる。左に下りて行けば、先ほど灯台の上から見た海中の遺構へたどり着けるだろう、と思った。日陰の山道を下った。少し行って振り返ると、白い灯台が見えた。ほぼ樹木に隠れている。しかも、裏側からだから、塀ばかり目につく。とはいえ、記念写真だ。何枚か撮った。

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2020

10/04

Sun.

10:59:10

<灯台紀行・旅日誌>2020 

Category【灯台紀行 三浦半島編

<灯台紀行・旅日誌>三浦半島編2020#10 観音崎公園

観音埼に着いた。周辺は、きっちりマップシュミレーションしている。迷わず、灯台に一番近い駐車場に入った。¥880!高いだろう。案内板を見ると、七月と八月だけが、この値段。ま、浜辺がすぐそこだし、夏場料金だ。駐車場はまだ空いていた。着いたのは八時半頃だったろうか。宿から、小一時間かかったようだ。

炎天下、なるべく日陰に止めたい。誰しもが思うことで、むろん、そんな場所はあいていない。車から出て、サンダルから靴に履き替えた。そう、足の甲が、また前回と同じで、痛痒い。赤くなっている。今日も、直射日光を受けるわけで、ちょっと嫌な感じがした。でも、どうしようない。装備を整え、出発だ。

駐車場のトイレで用を足した。念のためだ。公衆便所の臭いがした。日本中の公衆便所が、その規模の大小にかかわらず、この特有のくさい臭いを放っているのだろう。ま、控え目に言っても、臭いがしない公衆便所は少ない。

歩き出した、すぐに浜辺だ。案内板がある。ちらっと見て、海の方へ吸い寄せられた。すぐ目の前の海の中に、変な構造物がある。あきらかに場違いな感じ。ためしに記述してみよう。長辺が五、六メートル、短辺が二、三メートルの、長方形のコンクリの台座が、10本ほどの円柱によって支えられている。円柱はほぼ沈んでいるが、海から一メートルほどだけ見える。その台座のほぼ真ん中に、海中の円柱とほぼ同じ太さの円柱が一本突き出ている。高さ三メートルほどの、その煙突状の胴体には、こちら向きに、白地に黒文字で<危険立入禁止>と書かれている。

河川敷に立っている鉄塔の台座を想起した。ただし、真ん中に立っている煙突状のモノが理解できない。何ともおかしな、不思議な造形だ。コンクリの劣化状態からして、かなり古いものであることに間違いない。

…今調べました。<海岸七不思議ー観音崎の自然&あれこれ>https://suzugamo.sakura.ne.jp/7fusigi.html というサイトによれば、

<私は沖合にある遺構をこれまで”海水浴場の飛び込み台”と決め込んでいたが、今回初心に返り、観音崎園地浜の路傍で、いかにも土地の古老?という感じのお年寄りに、由来をお尋ねしたところ………

 「昭和10年代に旧軍が建造したもので、海中にある飛び込み台のような遺構と、手前の岸壁は桟橋で結ばれ、レールが敷設されていた。桟橋には輸送船が横付けされ、灯台のように見える柱にロープで係船、荷揚げされた弾薬等は、トロッコで陸上の倉庫へと移送された。戦後、海水浴場を開設するにあたり、邪魔な桟橋は撤去されたが、その時のコンクリート製橋脚の残骸が観音崎園地の磯にいまだに放置されている。」 

ということであった。このサイトの管理人様、事後ではありますが引用をお許しいただきたい。

とにかく、なんだかおもしろいので、最大限近寄れるところまで、それが<手前の岸壁>の遺構だったのだが、近寄って、かなりしつこく撮った。そのうち、若い女性の二人連れが来たので、場所を譲った。あれ、と思って振り返ると、派手なブラウスを着た、小柄で少し浅黒い、その娘たちから、何か外国語が聞こえた。向き直って、遺構を見るふりをして、彼女たちを見た。スマホで記念写真を撮っている。はは~ん、フィリピン系だな。

狭い砂浜はキャンプ場になっていた。色とりどりのテントが、今はやりの、ソウシャルディスタンスを取っているのだろうか、三々五々見える。脇目せずに、キャンプ場を抜け、灯台へ向かう遊歩道に入った。このあたりもマップシュミレーション済みだ。多少の日陰。だが、かなり暑い。と、目線の上の方、深い緑の木々に覆われた岬のてっぺんに、白い観音埼灯台の頭が、ちょこんと見えた。

そこはちょうど、両脇の木立が切れるところで、二、三歩、行きつ戻りつして、灯台が、一番たくさん見えるところで立ち止まり、何枚か写真を撮った。この位置を覚えておこう、と思った。さらに行くと、視界が開けて、炎天下。灯台の頭は岬に隠れてしまった。左側は海、右側に、何かトンネルをふさいだような痕跡、これも戦跡っぽかったが、さほど魅力を感じない。続いて、崖がえぐられた場所があり、観音様が祭られているようだ。案内板には、観音埼の<観音>の由来が書いてあった。斜め読みしたが、行基上人の文字しか頭に入らない。頭に入れる必要もないから、ま、流したのだ。

と、続いて、少し朱色がかった、長方形の大きな石に、何やら縦書きの文字が連なっている。近づいてみると<燈台へ行く道>という題字が見える。さらに近づいてみてみると<西脇順三郎>と彫り込まれていた。

燈台へ行く道  西脇順三郎
まだ夏が終わらない
燈台へ行く道
岩の上に椎の木の黒ずんだ枝や
いろいろの人間や
小鳥の国を考えたり
「海の老人」が人の肩車にのつて
木の実の酒を飲んでいる話や
キリストの伝記を書いたルナンという学者が
少年の時みた「麻たたき」の話など
いろいろな人間がいつたことを
考えながら歩いた>

平易でわかりやすい詩だ。自分にも、何か、わかるような気がした。<西脇順三郎>は難解だと思っていたので、意外だった。それにしても、著名な詩人が、ここに来ていたとは、ちょっと驚きだった。詩碑を、ぱちりと一枚だけ撮った。ちなみに、今ネット検索したら、<詩>の全文が出てきた。詩碑は、その前半である。全文を読むと、あらためて、より感動が深まった。

やぶの中を「たしかにあるにちがいない」と思つて
のぞいてみると
あの毒々しいつゆくさの青い色もまだあつた
あかのまんまの力も弱つていた
岩山をつきぬけたトンネルの道へはいる前
「とべら」という木が枝を崖からたらしていたのを
実のついた小枝の先を折つて
そのみどり色の梅のような固い実を割つてみた
ペルシャのじゅうたんのように赤い
種子(たね)がたくさん、心(しん)のところにひそんでいた
暗いところに幸福に住んでいた
かわいゝ生命をおどろかしたことは
たいへん気の毒に思つた
そんなさびしい自然の秘密をあばくものでない
その暗いところにいつまでも
かくれていたかつたのだろう
人間や岩や植物のことを考えながら
また燈台への道を歩きだした

その先、遊歩道は、先日来の大雨で、通行止めになっていた。だが、幸いなことに、灯台への登り口は、その手前だった。階段を登り始めた。鬱蒼とした緑の木々。日陰だが、風が通らないから、極端に蒸し暑い。静寂。セミの鳴き声が聞こえていたのかもしれない。さっき読んだ<西脇順三郎>の詩碑。詩人の静謐な孤独を思った。世界への、人間への大きな愛を感じた。いい詩だなあ~と思いながら、少し広めの急な階段を、ゆっくり辿っていった。

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