此岸からの風景
<日本灯台紀行 旅日誌>オヤジの灯台巡り一人旅 長~い呟きです
2021
07/28
Wed.
11:27:08
<灯台紀行・旅日誌>2020
Category【灯台紀行 福島・茨城編】
<灯台紀行・旅日誌>2020福島・茨城編#3
鵜ノ尾埼灯台撮影2
短いトンネルをくぐって、すぐに右折。相馬港に入った。右側に高い堤防があり、その下に車を縦に止められる駐車スペースがあった。ちょうどいい。というのも、その堤防越しに、岬が見え、その上に灯台が立っているのだ。海の中には、たしかサーファーが二、三人いたような気もする。外に出た。カメラ二台を手にして、岬の灯台を狙った。だが、ちょうど逆光だ。青空が白茶けている。今は無理だなとすぐに諦めた。
車を出した。今度は、だだっ広い漁港の中を、岬の上から見えた灯台はどこかな、ときょろきょろしながら、ゆっくり走った。目の前には、係船岸壁が何本もあり、釣り人で盛況だ。ただその先は、いずれも高い防波堤になっているような感じ。灯台は見えない。それに、体調不良で、もう写真なんか撮る気がしない。昼寝だな。
日差しが強いので、日陰はないかと見まわした。だが、そのような場所は、どこにもない。左手に、そう、あの<松川浦大橋>があるではないか。半信半疑で近づくと、背の高い橋脚の下に駐車できるようになっている。ただし、橋があまりに高いので、日陰にはならずカンカン照り。橋の影は道路にかかっている。ま、いい。一応車を止めて外に出た。駐車場から、コンクリ階段を数段登ると、だだっ広い公園だ。ベンチはあるものの、日陰はない。
見ると、橋の下には、運河のような流れがある。いま、地図で確認すると、この場所は、<松川浦>という砂州で区切られた湖?と海がつながっている唯一の場所なのだ。だから、<松川湖>ではなく<松川浦>だったのだ。この時は、そんなことは思いもよらず、柵沿いに数珠なりの釣り人たちを見て、よく釣れるのかな、くらいにしか思わなかった。
公園の端には、真新しい簡易トイレが数基並んでいた。用を足したいような気もしたが、婆さんや爺さんが、出入りしているのが目に入ったので、行く気がなくなった。どうしてかって、野外に設置された簡易トイレほど、気持ちの悪い物はないではないか!むっと暑くて、汚くて、臭っている。しかも密閉空間だ。車に戻った。もう限界だった。日陰を探すのも面倒で、すぐにも、後ろの仮眠スペースにもぐり込みたかった。
正面からの陽射しがきつい。フロントガラスにシールドをかけようとしたら、自分がさっき上がって行ったコンクリ階段に、スケボーを手にした、三十代くらいの、人相の悪い男が見えた。ちらっと、こっちを振り返ったので、目が合ったような気もする。なんなんだよ、あの野郎は!気分がよくないので、すぐに移動。といっても行く当てもなく、漁港のだだっ広い駐車場の、周りにほとんど車の止まっていない場所を選んで車を止めた。むろん、カンカン照りの中だ。
だが、この否応のない選択は、間違いでもなかった。というのも、季節はもう、完全に秋だった。カンカン照りといっても、夏場とは違い、エアコンなしでは車内にいられない、というほどの暑さではないのだ。左右四枚の窓ガラスを少し開けた。涼しい風が入ってくる。持ち物、荷物でごった返している、うしろの仮眠スペースに滑り込んだ。
荷物どもを脇へ寄せ、自分のスペースを確保して、横になった。横になった瞬間、おしっこがしたいような気になり、再び起き上がり、例の<おしっこ缶>を取り出して、用を足した。その際、ちらっと、外が見えた。というのも、面倒なので、すべての窓にシールドを張ったわけではないのだ。と、さっきのスケボー男が、すぐそこにいる。俺の後をつけてきたのか!と一瞬勘ぐった。そうでもない感じなので、両ひざをついたまま、前をはだけた状態で、奴を観察した。
十メートルほど先にいたが、それ以上は近づいてくる気配はなく、下手なスケボーを転がしている。どう見ても、辺りの雰囲気からは浮いている。だって、ここは漁港で、ほとんどの人は釣りに来ているんだ。しかも、スケボーなんて、十代の坊やがやるものだろう。野郎は、まさか自分が、車の中から観察されているとは、夢にも思っていない感じだ。人に見られているかもしれない、という警戒心がない。無防備だ。人相の悪い、薄青っぽい服装の男は、そのうち、向こうへ行ってしまった。
体調的には、もう限界だった。ゴロンと横になって、目をつぶった。いわゆる、<側臥位=そくがい>だ。耳栓をしようかな、と思ったものの、面倒なのと、辺りが静かなのとで、そのままじっとしていた。そのうち、うとうとしたようだ。途中で、窓からの風が冷たく感じた。
起き上がって、コンソールボックスの横の<同行二人>棒を手に取り、その先っちょをブレーキペダルに押し当てた。そして、ハンドル左横のスタートスイッチを、身を乗り出し、人差し指で押した。<ブレーキペダルを踏んでスタートボタンを押す>。最近の自動車には、<キー>はないのだ。これでエンジンがかかった。さらに、運転席側のドアの側面にある、パワーウィンドウのスイッチを押して、少し開いていた、後部ウィンドーをきっちり閉めた。安心して、またうとうとした。
メモによると<昼寝―限界 便意、ほおがほてる、ねむけ、11:30~12:30 いくらもねむれない>とある。熟睡はできなかったとはいえ、小一時間、うとうとしたわけだ。少し元気が回復したのだろう、先ほどの、入り口付近の堤防の前に行き、車を止めた。外に出て、リアーウィンドーを開け、カメラ二台を取り出した。よいしょ、と堤防によじ登り、<鵜ノ尾埼灯台>を撮り始めた。太陽は少し西に傾き、逆光は、さっきよりはきつくなかった。
陽が差し込んでいるので、波しぶきが目に眩しい。サーファーの数も増えていたような気がする。写真の中に、何が面白いのか?波に翻弄される黒い人影が点在してしまう。この時は、さほど気にもならなかった。だが、あとで補正する段になって、サーファーさんたちには恐縮だが、写真的には、消し去る方がいいような気がした。
標準と望遠で、もうこれ以上、この位置からでは無理だろう、と思えるまで、しつこく撮った。要するに、撮れた気がしなかったのだ。とはいえ、撮り飽きて、今一度、岬の下あたりをじっくり眺めた。テトラポットに守られている感じで、狭い浜があるようだ。歩いて、岬の真下まで行けるかもしれない。灯台の、まだ見たことのない姿が期待できるわけだ。
堤防には、ご丁寧なことに、何か所か、砂浜に下りられる階段がついていた。むろん、サーファーたちはここを下って、海に入るわけだ。この狭い砂浜は、おそらく、相馬港で唯一の砂浜だろう。砂の上を歩いて、岬方向へ向かった。ふと右手を見上げると、岬のどてっぱらを貫いている短いトンネルの入り口が見えた。その手前には、そそり立つ防潮堤が見える。
問題はその下だ。というか、波際のテトラポットと防潮堤の間にある白っぽい石がごろごろしている場所だ。そこを通過しなければ、岬の真下には出られない。いやな予感がしたんだけれども、行けるところまで行くことにした。というのも、カメラを、一台は首に、一台は肩に掛けているので、万が一にもズッコケたら、カメラがだめになる。いきおい、慎重に歩かざるを得ない。ところがだ、これが、かなりの苦難の道で、足を出すところを目で確認してから、一歩進むという、いわば、<沢登り>に近い感じになってしまった。
波際には古いテトラポットがあり、それらは、あの<大津波>に襲われて、ひっくり返ったり、破損したりしている。なので、新しいテトラが、投入された。だが、新しいテトラが、びっしり、防潮堤まで積まれているわけではない。その間に、大小の石が敷かれている、というか、撒かれているのだ。大きいのは、一抱えもあり、小さいのでさえ、こぶし大だ。非常に歩きづらい。
それに、防潮堤は、岬の先端に向かっているのではなく、どてっぱらを貫通しているトンネルの前あたりで、中途半端なまま切れている。となれば、その後は、むき出しの断崖絶壁がそそりたっているわけで、その下のわずかな空間、ま、言ってみれば、多少の砂地なのだが、そこに大小の石がばら撒かれているだけだ。
岬の先端に近づけば近づくほど、足場は悪くなり、しかも、灯台は見えにくくなる。当たり前だ。思いっきり見上げたところに灯台があるわけで、すでに半分くらいは樹木に隠れて見えない。そんなことはあり得ないのだが、一瞬、今地震が来たら、一巻の終わりだと思った。なぜって、断崖が崩れ落ちてきたら、逃げようがないだろう。足場は悪く、走れない。そのうち、あせって転んで、カメラをだめにする。しかも、足に怪我をして、なかなかこの海辺から避難できない。サーファーたちは、とっくに避難して、周りには誰もいない。声を限りに助けを呼んでも、無駄だ。そのうち、大津波が来て、一気に飲みこまれてしまうのだ。
やめよう!妄想だ。だが、これほど極端ではないが、嫌な予感が当たってしまった。ほぼ岬の先端にまで到達して、樹木にほとんど隠れた灯台を、これでもかと撮って、引き上げた。テトラや大小の石の間を、例の<沢登り>の要領で、渡り歩いていた時、足の裏が変な感覚になった。踏ん張りがきかないのだ。あれ~、と思って、下を見ると、黒いコールタールのようなものが目に入った。なんだろう、と摘み上げてみると、足形だった。なんで?一瞬、間をおいて、気づいた。左足の靴の底がつるつるしていたのだ。
おわかりだろうか、過酷な<沢登り>歩行により、靴底が剥がれてしまったのだ。<ダナー>というブランドで、本革の、底が凸凹しているウォーキングシューズだった。ただ、購入したのが、十年以上も前だった。ま、それにしても、靴本体と底が、接着されているとは思いもしなかった。経年劣化で、その接着剤がきかなくなり、剥がれたのだ。まさに、青天の霹靂だった。仕方ない、帰宅したら、接着剤で張り合わせてみようかと、その黒いコールタールのような足形を、指先でつまんだまま、引き返した。何しろ、ポケットにしまうにはデカすぎたのだ。
鵜ノ尾埼灯台撮影2
短いトンネルをくぐって、すぐに右折。相馬港に入った。右側に高い堤防があり、その下に車を縦に止められる駐車スペースがあった。ちょうどいい。というのも、その堤防越しに、岬が見え、その上に灯台が立っているのだ。海の中には、たしかサーファーが二、三人いたような気もする。外に出た。カメラ二台を手にして、岬の灯台を狙った。だが、ちょうど逆光だ。青空が白茶けている。今は無理だなとすぐに諦めた。
車を出した。今度は、だだっ広い漁港の中を、岬の上から見えた灯台はどこかな、ときょろきょろしながら、ゆっくり走った。目の前には、係船岸壁が何本もあり、釣り人で盛況だ。ただその先は、いずれも高い防波堤になっているような感じ。灯台は見えない。それに、体調不良で、もう写真なんか撮る気がしない。昼寝だな。
日差しが強いので、日陰はないかと見まわした。だが、そのような場所は、どこにもない。左手に、そう、あの<松川浦大橋>があるではないか。半信半疑で近づくと、背の高い橋脚の下に駐車できるようになっている。ただし、橋があまりに高いので、日陰にはならずカンカン照り。橋の影は道路にかかっている。ま、いい。一応車を止めて外に出た。駐車場から、コンクリ階段を数段登ると、だだっ広い公園だ。ベンチはあるものの、日陰はない。
見ると、橋の下には、運河のような流れがある。いま、地図で確認すると、この場所は、<松川浦>という砂州で区切られた湖?と海がつながっている唯一の場所なのだ。だから、<松川湖>ではなく<松川浦>だったのだ。この時は、そんなことは思いもよらず、柵沿いに数珠なりの釣り人たちを見て、よく釣れるのかな、くらいにしか思わなかった。
公園の端には、真新しい簡易トイレが数基並んでいた。用を足したいような気もしたが、婆さんや爺さんが、出入りしているのが目に入ったので、行く気がなくなった。どうしてかって、野外に設置された簡易トイレほど、気持ちの悪い物はないではないか!むっと暑くて、汚くて、臭っている。しかも密閉空間だ。車に戻った。もう限界だった。日陰を探すのも面倒で、すぐにも、後ろの仮眠スペースにもぐり込みたかった。
正面からの陽射しがきつい。フロントガラスにシールドをかけようとしたら、自分がさっき上がって行ったコンクリ階段に、スケボーを手にした、三十代くらいの、人相の悪い男が見えた。ちらっと、こっちを振り返ったので、目が合ったような気もする。なんなんだよ、あの野郎は!気分がよくないので、すぐに移動。といっても行く当てもなく、漁港のだだっ広い駐車場の、周りにほとんど車の止まっていない場所を選んで車を止めた。むろん、カンカン照りの中だ。
だが、この否応のない選択は、間違いでもなかった。というのも、季節はもう、完全に秋だった。カンカン照りといっても、夏場とは違い、エアコンなしでは車内にいられない、というほどの暑さではないのだ。左右四枚の窓ガラスを少し開けた。涼しい風が入ってくる。持ち物、荷物でごった返している、うしろの仮眠スペースに滑り込んだ。
荷物どもを脇へ寄せ、自分のスペースを確保して、横になった。横になった瞬間、おしっこがしたいような気になり、再び起き上がり、例の<おしっこ缶>を取り出して、用を足した。その際、ちらっと、外が見えた。というのも、面倒なので、すべての窓にシールドを張ったわけではないのだ。と、さっきのスケボー男が、すぐそこにいる。俺の後をつけてきたのか!と一瞬勘ぐった。そうでもない感じなので、両ひざをついたまま、前をはだけた状態で、奴を観察した。
十メートルほど先にいたが、それ以上は近づいてくる気配はなく、下手なスケボーを転がしている。どう見ても、辺りの雰囲気からは浮いている。だって、ここは漁港で、ほとんどの人は釣りに来ているんだ。しかも、スケボーなんて、十代の坊やがやるものだろう。野郎は、まさか自分が、車の中から観察されているとは、夢にも思っていない感じだ。人に見られているかもしれない、という警戒心がない。無防備だ。人相の悪い、薄青っぽい服装の男は、そのうち、向こうへ行ってしまった。
体調的には、もう限界だった。ゴロンと横になって、目をつぶった。いわゆる、<側臥位=そくがい>だ。耳栓をしようかな、と思ったものの、面倒なのと、辺りが静かなのとで、そのままじっとしていた。そのうち、うとうとしたようだ。途中で、窓からの風が冷たく感じた。
起き上がって、コンソールボックスの横の<同行二人>棒を手に取り、その先っちょをブレーキペダルに押し当てた。そして、ハンドル左横のスタートスイッチを、身を乗り出し、人差し指で押した。<ブレーキペダルを踏んでスタートボタンを押す>。最近の自動車には、<キー>はないのだ。これでエンジンがかかった。さらに、運転席側のドアの側面にある、パワーウィンドウのスイッチを押して、少し開いていた、後部ウィンドーをきっちり閉めた。安心して、またうとうとした。
メモによると<昼寝―限界 便意、ほおがほてる、ねむけ、11:30~12:30 いくらもねむれない>とある。熟睡はできなかったとはいえ、小一時間、うとうとしたわけだ。少し元気が回復したのだろう、先ほどの、入り口付近の堤防の前に行き、車を止めた。外に出て、リアーウィンドーを開け、カメラ二台を取り出した。よいしょ、と堤防によじ登り、<鵜ノ尾埼灯台>を撮り始めた。太陽は少し西に傾き、逆光は、さっきよりはきつくなかった。
陽が差し込んでいるので、波しぶきが目に眩しい。サーファーの数も増えていたような気がする。写真の中に、何が面白いのか?波に翻弄される黒い人影が点在してしまう。この時は、さほど気にもならなかった。だが、あとで補正する段になって、サーファーさんたちには恐縮だが、写真的には、消し去る方がいいような気がした。
標準と望遠で、もうこれ以上、この位置からでは無理だろう、と思えるまで、しつこく撮った。要するに、撮れた気がしなかったのだ。とはいえ、撮り飽きて、今一度、岬の下あたりをじっくり眺めた。テトラポットに守られている感じで、狭い浜があるようだ。歩いて、岬の真下まで行けるかもしれない。灯台の、まだ見たことのない姿が期待できるわけだ。
堤防には、ご丁寧なことに、何か所か、砂浜に下りられる階段がついていた。むろん、サーファーたちはここを下って、海に入るわけだ。この狭い砂浜は、おそらく、相馬港で唯一の砂浜だろう。砂の上を歩いて、岬方向へ向かった。ふと右手を見上げると、岬のどてっぱらを貫いている短いトンネルの入り口が見えた。その手前には、そそり立つ防潮堤が見える。
問題はその下だ。というか、波際のテトラポットと防潮堤の間にある白っぽい石がごろごろしている場所だ。そこを通過しなければ、岬の真下には出られない。いやな予感がしたんだけれども、行けるところまで行くことにした。というのも、カメラを、一台は首に、一台は肩に掛けているので、万が一にもズッコケたら、カメラがだめになる。いきおい、慎重に歩かざるを得ない。ところがだ、これが、かなりの苦難の道で、足を出すところを目で確認してから、一歩進むという、いわば、<沢登り>に近い感じになってしまった。
波際には古いテトラポットがあり、それらは、あの<大津波>に襲われて、ひっくり返ったり、破損したりしている。なので、新しいテトラが、投入された。だが、新しいテトラが、びっしり、防潮堤まで積まれているわけではない。その間に、大小の石が敷かれている、というか、撒かれているのだ。大きいのは、一抱えもあり、小さいのでさえ、こぶし大だ。非常に歩きづらい。
それに、防潮堤は、岬の先端に向かっているのではなく、どてっぱらを貫通しているトンネルの前あたりで、中途半端なまま切れている。となれば、その後は、むき出しの断崖絶壁がそそりたっているわけで、その下のわずかな空間、ま、言ってみれば、多少の砂地なのだが、そこに大小の石がばら撒かれているだけだ。
岬の先端に近づけば近づくほど、足場は悪くなり、しかも、灯台は見えにくくなる。当たり前だ。思いっきり見上げたところに灯台があるわけで、すでに半分くらいは樹木に隠れて見えない。そんなことはあり得ないのだが、一瞬、今地震が来たら、一巻の終わりだと思った。なぜって、断崖が崩れ落ちてきたら、逃げようがないだろう。足場は悪く、走れない。そのうち、あせって転んで、カメラをだめにする。しかも、足に怪我をして、なかなかこの海辺から避難できない。サーファーたちは、とっくに避難して、周りには誰もいない。声を限りに助けを呼んでも、無駄だ。そのうち、大津波が来て、一気に飲みこまれてしまうのだ。
やめよう!妄想だ。だが、これほど極端ではないが、嫌な予感が当たってしまった。ほぼ岬の先端にまで到達して、樹木にほとんど隠れた灯台を、これでもかと撮って、引き上げた。テトラや大小の石の間を、例の<沢登り>の要領で、渡り歩いていた時、足の裏が変な感覚になった。踏ん張りがきかないのだ。あれ~、と思って、下を見ると、黒いコールタールのようなものが目に入った。なんだろう、と摘み上げてみると、足形だった。なんで?一瞬、間をおいて、気づいた。左足の靴の底がつるつるしていたのだ。
おわかりだろうか、過酷な<沢登り>歩行により、靴底が剥がれてしまったのだ。<ダナー>というブランドで、本革の、底が凸凹しているウォーキングシューズだった。ただ、購入したのが、十年以上も前だった。ま、それにしても、靴本体と底が、接着されているとは思いもしなかった。経年劣化で、その接着剤がきかなくなり、剥がれたのだ。まさに、青天の霹靂だった。仕方ない、帰宅したら、接着剤で張り合わせてみようかと、その黒いコールタールのような足形を、指先でつまんだまま、引き返した。何しろ、ポケットにしまうにはデカすぎたのだ。
[edit]
2021
07/21
Wed.
09:38:34
<灯台紀行・旅日誌>2020
Category【灯台紀行 福島・茨城編】
<灯台紀行・旅日誌>2020福島・茨城編#2
鵜ノ尾埼灯台撮影1
常磐道相馬インターで降りた。料金は休日割りで¥5500くらいだったと思う。一般道に出ると、そこには、見慣れた光景が広がっていた。車が忙しく行き交い、人の姿が見え、大きな看板が連なっている。目の前には自転車に乗った高校生だ。日常だ!肩の力が抜け、心が軽くなったような気がした。ナビに従い、市街地を抜けた。
相馬港が見えてきた。その向こうの岬、断崖の上に白い灯台が小さく見えた。あれだな、と思った。港に沿って、広い道路を走り、短いトンネルをくぐった。出てすぐ左側に駐車場があり、車を止めて、とりあえず外へ出た。時計を見たのだろう。まだ九時前だった。五時間はかからなかったわけだ。
反り返った、真新しい防潮堤の前に立った。目の前は、日本海。灯台は、左手の断崖の上にあり、ここからは見えない。右手は、ずうっと開けていて、広い道路が海と湖を隔てているような感じ。あとでわかったのだが、道路になっているところは、砂州だったらしい。むろん<大津波>で流されてしまったようだが。
風が冷たく感じた。岬の上はもっと寒いだろう。念のために、ジーンズの上にウォーマーをはき、パーカの上にダウンパーカを着た。真冬の装備だ。しかし、これは間違いだった。小さな神社の前から、急な坂道を、いくらも登らないうちに、汗がどっと出た。迷わず、ダウンパーカは脱いで、わきに抱えた。正確には、カメラバッグの肩紐に引っ掛けて落ちないようにした。ただ、ウォーマーの方は、脱ぐのが面倒なので、そのままにした。だいたいにおいて、汗のかくところは上半身なのだ。
神社の脇を抜けて、そのまま登ると、すぐに突きあたり。案内板がある。左矢印は展望台、右矢印は<へりおす>?と書いてある。<へりおす>何のことかわからなかったが、気まぐれで、そっちへ行った。と、いくらもしないうちに、平場に出た。枯れ果てた大きな松だろうか、くねくねしたのが何本もある。岬の上で、周りは柵で囲まれていた。左方向には、お目当ての灯台、正面には、大きな碑が見えた。
まずは、対岸?の岬に立つ灯台を撮り始めた。やや遠目。それに、あろうことか、ひょろひょろした背の高い、上の方にだけ葉のついた樹木が一本、灯台の前にある。柵の前をゆっくり歩きながら、撮り歩きした。だが、どうしても、このひょろひょろの木が灯台と重なってしまう。見た目、よろしくない。灯台の立っている岬を、よくよく見ると、至る所に、同じようなひょろひょろ君が立っている。それに、なぜか斜面がえぐられた感じで、そこに、苗木が植林されている。枯れ果てた樹木の残骸も目に付く。
何が原因で、このような地形、状況になってしまったのか?はじめは、能天気にも<大津波>が押し寄せたのだろうと思った。だが、断崖はかなり高く、ここまで津波が押し寄せたとは思えない。あと考えられるのは、過酷な気象条件しかないだろう。その証拠に、柵際にも、枯れ果て、途中で折れてしまった樹木がたくさんあった。いま思うに、強い海風にあおられた結果の、塩害なのかもしれない。
ともかく、朝の三時に起きて、高速を五時間突っ走ってきたんだ。しかも、放射能に汚染された区域を通過して!もう、撮るしかないだろ。気持ちを切り替えて、撮影に集中した。柵沿いを、そろそろと歩き撮りしながら、大きな碑の横にまで来た。さらには岬の先端にまで行った。要するに、灯台が見えるすべてのアングルを網羅した。ひょろひょろ君のことは、ま、既成の事実として受け入れた。それよりも、右端に、海を入れることができたので、多少は写真になったと思った。
一息ついた。大きな碑の裏側だった。そこに説明文が刻み込まれていた。概要としては、1986年6月16日、海洋調査船<へりおす>は、処女航海として、清水港から羽幌港へ向かう途中、福島沖で悪天候に遭遇、遭難、沈没。九名の乗組員は全員死亡、みな20~30代の若者だった。痛ましい海難事故が、すぐ目の前の海で起きていたのだ。まったく知らなかったこととはいえ、厳粛な気持ちになった。ちなみに、事故の原因は、船体の欠陥との説もある。
移動。大きな碑と、曲がりくねった松に背を向け、歩き出した。灯台正面へと至る道は、すぐ見つかった。ただし、両脇は背の高い樹木。松だろうな。灯台をサンドイッチしている。小道の先に五、六段のコンクリ階段が見えた。この辺が限度だ。これ以上先に進むと、灯台の全景がカメラにおさまらない。
ま、いい。灯台の敷地に入った。ほとんど引きがないので、むろん全景写真は無理だ。<鵜ノ尾埼灯台>は、四角柱に近いが、何とも記述しがたい形で、写真を見てもらうしかない。自分的には美しいフォルムだと思う。ただ、どことなくうす汚れている。、正面裏側?の、扉周辺の壁の塗料が剥げかけていて、毛羽立っている。大切にされているとは言い難い状態で、ちょっと残念な気持ちになった。その塗料の剥げかけた、灯台の胴体をスナップした。いま思えば、半ば無意識の、誰に対してでもない、無言の抗議だったのだろうか。
灯台を左回りにぐっと回って、敷地の外に出た。北側?の柵沿いの小道は鬱蒼としていて、樹木の間から、かすかに相馬港が見えるといった感じだ。少し行って、柵を左側にして、ふり返る。たしか、ネットで見たベストポジションはここだろう。だがしかし、樹木が生い茂っていて、灯台をほとんど隠している。ネット写真では、樹木が枯れ果てていて、その隙間から灯台が見えていたはずだ。…今調べた。幻覚、というか幻視だったのか、いや、単純に勘違いだろう。そのような画像は見当たらない。いや、たしかに見たのだ!とにかく、この位置取りからはまるっきり写真にならなかった。
柵沿い、樹木の隙間から、漁港が見える。おそらく相馬港だろう。いの一番目についたのが、海の中にある防波堤で、白い、豆粒ほどの防波堤灯台が立っている。ほとんど反射的に、何枚か撮って、先に進んだ。と、木製の小さな展望台があった。あ~、さっきの案内板にあった<展望台>とはこれだな。
トントントンと、五、六段階段を登った。展望台、というよりは、展望スペースだな。広さが二畳ほどで、高さが1mほど。ま、たしかに展望はいい。カメラバックをおろし、一息入れた。ついでだ、望遠カメラを取り出した。柵に肘をつけ、カメラを固定して、性懲りもなく、豆粒大の防波堤灯台を撮った。あまりに遠目で、写真にならないのはわかり切っていた。だが、なぜか、撮らずにはいられなかった。いい景色なのだ。この時、眼下の相馬港にも、あの<大津波>が押し寄せたのだ、ということはまったく忘れていた。
…おそらく、理由はこうだ。上半身、とくに背中の辺が汗だくで、かなり不快だった。パーカを脱げばいいのだが、どっこい、冷たい風に、湿った身体がさらに冷やされ、なおさら不快だ。夏場と違い、汗で湿った衣類の乾きが遅く、体の体温を奪う。うまく対処しないと、風邪をひく。早く車に戻って、着替えよう。などと考えていたのだろう。そくそくと展望台を後にした。ただ、念のために、ベストポジションであろう、<へりおす>の碑があるところに戻った。今一度、この場所での、最良のポジションで、ということは、右側に海を入れて、何枚か撮った。念には念を、というわけだ。
車に戻った。さっそく着替えた。上半身裸になって、長い綿マフラーで背中をふいた。と、そばに、ハーレーのようなバイクが止まっている。なんとなく、アメリカの白バイ仕様だ。あれっと、ふり返ると、高い防潮堤に、白髪、サングラスの爺が座りこんでいて、こちらを見るともなく見ている感じ。にこやかな雰囲気で、友好的だ。こちらから、挨拶してもよかったのだが、どうも、体調がよくない。それもそのはず、いくらも寝ていないうえに、五時間の高速走行、その後、重いカメラバックを背負い、大汗かいての写真撮影だ。だいたい、朝のウンコもしていない。下っ腹が張っているし、眠いし、頭が重い。人と話す気分じゃない。シカとして、駐車場を出た。
鵜ノ尾埼灯台撮影1
常磐道相馬インターで降りた。料金は休日割りで¥5500くらいだったと思う。一般道に出ると、そこには、見慣れた光景が広がっていた。車が忙しく行き交い、人の姿が見え、大きな看板が連なっている。目の前には自転車に乗った高校生だ。日常だ!肩の力が抜け、心が軽くなったような気がした。ナビに従い、市街地を抜けた。
相馬港が見えてきた。その向こうの岬、断崖の上に白い灯台が小さく見えた。あれだな、と思った。港に沿って、広い道路を走り、短いトンネルをくぐった。出てすぐ左側に駐車場があり、車を止めて、とりあえず外へ出た。時計を見たのだろう。まだ九時前だった。五時間はかからなかったわけだ。
反り返った、真新しい防潮堤の前に立った。目の前は、日本海。灯台は、左手の断崖の上にあり、ここからは見えない。右手は、ずうっと開けていて、広い道路が海と湖を隔てているような感じ。あとでわかったのだが、道路になっているところは、砂州だったらしい。むろん<大津波>で流されてしまったようだが。
風が冷たく感じた。岬の上はもっと寒いだろう。念のために、ジーンズの上にウォーマーをはき、パーカの上にダウンパーカを着た。真冬の装備だ。しかし、これは間違いだった。小さな神社の前から、急な坂道を、いくらも登らないうちに、汗がどっと出た。迷わず、ダウンパーカは脱いで、わきに抱えた。正確には、カメラバッグの肩紐に引っ掛けて落ちないようにした。ただ、ウォーマーの方は、脱ぐのが面倒なので、そのままにした。だいたいにおいて、汗のかくところは上半身なのだ。
神社の脇を抜けて、そのまま登ると、すぐに突きあたり。案内板がある。左矢印は展望台、右矢印は<へりおす>?と書いてある。<へりおす>何のことかわからなかったが、気まぐれで、そっちへ行った。と、いくらもしないうちに、平場に出た。枯れ果てた大きな松だろうか、くねくねしたのが何本もある。岬の上で、周りは柵で囲まれていた。左方向には、お目当ての灯台、正面には、大きな碑が見えた。
まずは、対岸?の岬に立つ灯台を撮り始めた。やや遠目。それに、あろうことか、ひょろひょろした背の高い、上の方にだけ葉のついた樹木が一本、灯台の前にある。柵の前をゆっくり歩きながら、撮り歩きした。だが、どうしても、このひょろひょろの木が灯台と重なってしまう。見た目、よろしくない。灯台の立っている岬を、よくよく見ると、至る所に、同じようなひょろひょろ君が立っている。それに、なぜか斜面がえぐられた感じで、そこに、苗木が植林されている。枯れ果てた樹木の残骸も目に付く。
何が原因で、このような地形、状況になってしまったのか?はじめは、能天気にも<大津波>が押し寄せたのだろうと思った。だが、断崖はかなり高く、ここまで津波が押し寄せたとは思えない。あと考えられるのは、過酷な気象条件しかないだろう。その証拠に、柵際にも、枯れ果て、途中で折れてしまった樹木がたくさんあった。いま思うに、強い海風にあおられた結果の、塩害なのかもしれない。
ともかく、朝の三時に起きて、高速を五時間突っ走ってきたんだ。しかも、放射能に汚染された区域を通過して!もう、撮るしかないだろ。気持ちを切り替えて、撮影に集中した。柵沿いを、そろそろと歩き撮りしながら、大きな碑の横にまで来た。さらには岬の先端にまで行った。要するに、灯台が見えるすべてのアングルを網羅した。ひょろひょろ君のことは、ま、既成の事実として受け入れた。それよりも、右端に、海を入れることができたので、多少は写真になったと思った。
一息ついた。大きな碑の裏側だった。そこに説明文が刻み込まれていた。概要としては、1986年6月16日、海洋調査船<へりおす>は、処女航海として、清水港から羽幌港へ向かう途中、福島沖で悪天候に遭遇、遭難、沈没。九名の乗組員は全員死亡、みな20~30代の若者だった。痛ましい海難事故が、すぐ目の前の海で起きていたのだ。まったく知らなかったこととはいえ、厳粛な気持ちになった。ちなみに、事故の原因は、船体の欠陥との説もある。
移動。大きな碑と、曲がりくねった松に背を向け、歩き出した。灯台正面へと至る道は、すぐ見つかった。ただし、両脇は背の高い樹木。松だろうな。灯台をサンドイッチしている。小道の先に五、六段のコンクリ階段が見えた。この辺が限度だ。これ以上先に進むと、灯台の全景がカメラにおさまらない。
ま、いい。灯台の敷地に入った。ほとんど引きがないので、むろん全景写真は無理だ。<鵜ノ尾埼灯台>は、四角柱に近いが、何とも記述しがたい形で、写真を見てもらうしかない。自分的には美しいフォルムだと思う。ただ、どことなくうす汚れている。、正面裏側?の、扉周辺の壁の塗料が剥げかけていて、毛羽立っている。大切にされているとは言い難い状態で、ちょっと残念な気持ちになった。その塗料の剥げかけた、灯台の胴体をスナップした。いま思えば、半ば無意識の、誰に対してでもない、無言の抗議だったのだろうか。
灯台を左回りにぐっと回って、敷地の外に出た。北側?の柵沿いの小道は鬱蒼としていて、樹木の間から、かすかに相馬港が見えるといった感じだ。少し行って、柵を左側にして、ふり返る。たしか、ネットで見たベストポジションはここだろう。だがしかし、樹木が生い茂っていて、灯台をほとんど隠している。ネット写真では、樹木が枯れ果てていて、その隙間から灯台が見えていたはずだ。…今調べた。幻覚、というか幻視だったのか、いや、単純に勘違いだろう。そのような画像は見当たらない。いや、たしかに見たのだ!とにかく、この位置取りからはまるっきり写真にならなかった。
柵沿い、樹木の隙間から、漁港が見える。おそらく相馬港だろう。いの一番目についたのが、海の中にある防波堤で、白い、豆粒ほどの防波堤灯台が立っている。ほとんど反射的に、何枚か撮って、先に進んだ。と、木製の小さな展望台があった。あ~、さっきの案内板にあった<展望台>とはこれだな。
トントントンと、五、六段階段を登った。展望台、というよりは、展望スペースだな。広さが二畳ほどで、高さが1mほど。ま、たしかに展望はいい。カメラバックをおろし、一息入れた。ついでだ、望遠カメラを取り出した。柵に肘をつけ、カメラを固定して、性懲りもなく、豆粒大の防波堤灯台を撮った。あまりに遠目で、写真にならないのはわかり切っていた。だが、なぜか、撮らずにはいられなかった。いい景色なのだ。この時、眼下の相馬港にも、あの<大津波>が押し寄せたのだ、ということはまったく忘れていた。
…おそらく、理由はこうだ。上半身、とくに背中の辺が汗だくで、かなり不快だった。パーカを脱げばいいのだが、どっこい、冷たい風に、湿った身体がさらに冷やされ、なおさら不快だ。夏場と違い、汗で湿った衣類の乾きが遅く、体の体温を奪う。うまく対処しないと、風邪をひく。早く車に戻って、着替えよう。などと考えていたのだろう。そくそくと展望台を後にした。ただ、念のために、ベストポジションであろう、<へりおす>の碑があるところに戻った。今一度、この場所での、最良のポジションで、ということは、右側に海を入れて、何枚か撮った。念には念を、というわけだ。
車に戻った。さっそく着替えた。上半身裸になって、長い綿マフラーで背中をふいた。と、そばに、ハーレーのようなバイクが止まっている。なんとなく、アメリカの白バイ仕様だ。あれっと、ふり返ると、高い防潮堤に、白髪、サングラスの爺が座りこんでいて、こちらを見るともなく見ている感じ。にこやかな雰囲気で、友好的だ。こちらから、挨拶してもよかったのだが、どうも、体調がよくない。それもそのはず、いくらも寝ていないうえに、五時間の高速走行、その後、重いカメラバックを背負い、大汗かいての写真撮影だ。だいたい、朝のウンコもしていない。下っ腹が張っているし、眠いし、頭が重い。人と話す気分じゃない。シカとして、駐車場を出た。
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2021
07/01
Thu.
10:12:53
<灯台紀行・旅日誌>2020
Category【灯台紀行 福島・茨城編】
<灯台紀行・旅日誌>2020 福島・茨城編#1
プロローグ~往路
今日は、2020-11-11日の水曜日。昨日の昼頃、旅から帰って来た。これから、福島・茨城編の旅日誌を書くつもりだ。
…塩屋埼灯台と日立灯台は、この計画、つまり<日本灯台紀行>を構想したときから、第一候補群に挙がっていた灯台だ。ちなみに、<第一候補群>というのは、ロケーションのいい、生きているあいだに絶対行くぞ、と思った灯台である。今回の<鵜ノ尾埼灯台>は、残念ながら、その候補からもれた、いわば第二候補群だった。ようするに、機会があれば、ついでに寄ってみようか、といったほどの灯台だった。ま、<鵜ノ尾埼灯台>には失礼な話だが。
この<鵜ノ尾埼灯台>を、今回の旅に加えた理由の一つに、距離的な問題がある。自宅からは340キロ、塩屋埼灯台からは100キロくらいの距離にあり、全行程ほぼ高速走行で、自分のペースでも、五時間以内で到着することができる。ここ何回かの旅で、多少なりとも、運転に自信がついてきた。片道五時間の運転は、さほど苦にならない。
二つ目の理由は、直前のネット画像の再確認で、灯台付近の枯れ果てた樹木が、やけに気になったからだ。<第一候補>選出の際にも、むろん、この光景は見ていたはずである。おそらく、その時は、景観的によろしくない、として却下したのだろう。だが今回、おそらく<ベストポジション>ともいうべき、その画像を見た時、即座に<大津波>を想起した。ちなみに<鵜ノ尾埼灯台>は、福島県相馬市に位置している。
一つ目の<うかつさ>に気づいて、早速、ユーチューブで、相馬港に押し寄せる<大津波>の動画を見た。今回現地入りして、灯台へ行く際に渡るであろう<松川浦大橋>が映っていた。その下を<大津波>が押し寄せてくる。灯台は映っていなかったが、おそらく、あの日の一部始終を、灯台は見ていたに違いない。…いや、その後の、今日までの復興の様子もだ。
もっとも、灯台は断崖の上にあり、津波に襲われたとも思えないが、そうすると、付近にあった枯れ果てた樹木たちは、<大津波>とは関係ないのかもしれない。その辺は、よく考えなかった。いや、考えられなかった。なにしろ、動画での<大津波>のインパクトが強すぎる。
ところで、灯台旅も今回で六回目になる。画像と違い、現地で、巨大な灯台に対面すると、圧倒されるのはもちろんのこと、最近では、その個体差?というか、個性を感じ取ることができるようになった。灯台、という概念ではなく、何々灯台、という唯一無比の存在であることが、なんとなく了解できるようになった。そして、灯台は、その構造物が単体で存在しているのではなく、周囲の環境と一体化しているのだ、ということも理解できるようになった。
ある意味、日当たりの悪い、見通しのない、見映えのしない場所にある灯台もあれば、その逆もある。むろん、写真を撮りたいのは、後者なのだが、だからといって、前者の灯台を無碍にすることができなくなってきた。それも、灯台の個性なのだ。自分が、だんだん<灯台オタク>になっていくのを感じる。ま、いいや。<ミイラ取りがミイラになる>という言葉もあるではないか。
とにかく、景観的にはイマイチと思っていた<鵜ノ尾埼灯台>が、あの<大津波>の目撃者だったということを理解したとたん、俄然撮りに行きたくなった。写真的にはよろしくない、あの枯れ果てた樹木さえもが、灯台の個性と思えるようになったわけだ。
一日目
2020-11-7(土)午前二時四十五分起床。昨晩は、九時すぎに消燈したものの、寝付いたのは日付が変わったころだったと思う。つまり、いくらも寝ていないわけだが、眠くはなかった。着替え、洗面、軽く食事(お茶漬け)。排便はといえば、でなかった。四時出発。一応のお決まり、ニャンコに<行ってくるよ>と声をかける。外はまだ真っ暗だった。
十五分くらいで、最寄りの圏央道のインターに入る。走り出してすぐに菖蒲パーキング、念のためのトイレ。もっとも、出発してからいくらもたってないので、ほとんど出ない。さてと、対向車のヘッドライトが眩しい。夜中の対面通行だ。80~90キロくらいで走っていたのに、バックミラーに、大型トラックのヘッドライトが二つ、みるみる大きくなってきた。おっと、ぶつかってくるのではないか!と恐怖を感じる。あおっている、としか思えないような車間距離だ。
90キロは出ている。振り切るには100キロ以上出せねばなるまい。視界の悪い対面通行では、危険な速度だろう。少なくとも自分にはできない。恐怖の時間がどのくらい続いたのか、よくは覚えていない。だが、そんなに長くはなかったと思う。そのうち、車線が二車線になる。バックミラーを見ると、大型トラックが、ハンドルを切った。自分の脇に来る。だが、俺の車だって、90キロ出ている。トラックは、なかなか前に出られず、高速道路上で、少しの間、並走した。と、その瞬間、目の前にトラックが出てきた。オレンジ色のウィンカーが点滅していたようにも思う。反射的に、アクセルから足を離し、ブレーキを踏みそうになった。
はあ~!!!外はまだ真っ暗だった。なんて野郎だ!若いころに見た<激突>という映画を思い出したよ。道路はまだ二車線だったので、脇を黒っぽいワゴン車が、猛スピードで走り抜けて行く。その小さな赤いテールランプを、何となく目で追っていると、彼方むこうで、ワゴン車のスピードがやや落ちたように思えた。前方に、さっきの大型トラックがいるのだ。ざまあみろ、とまでは思わなかったが、<あおった者が今度はあおられる>。人間社会の縮図だな。少し冷静になった。
その後も、断続的な対面通行や、片側一車線の高速走行が続いた。だが、極端に車間を詰めてくる車は一台もなかった。たまたま、嫌な野郎に出っくわしたんだ。そう思うことにして機嫌を直した。
走り始めてから二時間ほどで、つくばジャンクションに到達した。たしか、辺りが少し明るくなっていたと思う。常磐道下りに入ると、車線が片側三車線になり、急に運転が楽になった。真ん中を、90キロくらいでずうっと走って、水戸、日立、北茨城、と見知った名前の案内板を次々に追い越していった。
単調な高速走行で、いささか飽きた。トイレ休憩したのは、小さなパーキングだった。そこに、何やら、プレハブ小屋が立っていた。<放射線量>がどうのこうのと書いてある。三畳ほどのその小屋に入った。壁に、べたべたといろいろポスターが貼ってある。近寄ってみると、ここから相馬あたりまでだったかな、とにかく、一回走り抜けると0.25デシベルの放射能を浴びることになる、と図解してあった。
ここで初めて、二つ目の<うかつさ>に気づいた。そうだ、<鵜ノ尾埼灯台>へ行くには、あの福島原発の横を通り抜けて行かねばならないのだ。0.25デシベルというのが、どのくらいの放射能なのか、この時は皆目見当もつかなかった。ただ、恐怖を感じたことは確かだ。走り出すとすぐに、高速道路上に掲示板があり、現在の放射線量0.1、と数字が点滅している。おいおいおい、大丈夫なのかよ!その後、広野・楢葉・富岡と通過するに従い、この線量は次第に上がって行った。そしてついに、2.2デシベル!場所的には、あの双葉・浪江あたりだった。
身を乗り出すようにして、両脇の風景を眺めた。もちろん、運転しているので、ちらちらと見ながら走っているわけだ。とにかく、何というか、田畑が荒廃している。点在する民家は、建物自体は健在なのだが、その敷地に、車が一台も止まっていない。なにしろ、ひとの気配が全くしない。ここは、映画の中でしかお目にかかったことのない、放射能で汚染された地域なのだ。
慄然とした。たかだか?2.2デシベルの放射線量でビビった自分が情けなかった。日本の中に、放射能で汚染され、人の住めなくなった場所が、実際にあり、それを目の当たりにしていたのだ。ここで生まれ育った人たちのことを思った。もし、生まれ育った土地を、理不尽にも、追われなければならないとしたら、この緑豊かな場所が、放射能で汚染されてしまったら、自分ならどう思うだろう。はらわたが煮えくり返る思いだ。誰が、どう責任を取るというのだ!
だがしかし、これほどのことをしておきながら、いまだに、だれも責任を取らず、事態がよい方向へ進んでいるとも思えない。日本の中に、空白地域が依然として存在し、先祖代々営々と作り上げ、丹精してきた山間の田畑は、恐ろしいほどに荒廃したままだ。気持ちが暗くなった。人間とは、これほどに愚かなものなのか。
あの南相馬を通り過ぎた。やや、放射線量が落ちてきた。それに、何やら、民家の庭先に車が止まっている。田畑に、かろうじて緑が戻り、丹精の跡が見える。ふと、山間の道に車が走っているのが見えた。正直、ほっとした。とはいえ、この帰宅困難区域は、いったい何十キロ続いていたのだろう。少なくとも、30キロ以上はあったような気がする。ありえない!少し冷静になった頭で考えた。
プロローグ~往路
今日は、2020-11-11日の水曜日。昨日の昼頃、旅から帰って来た。これから、福島・茨城編の旅日誌を書くつもりだ。
…塩屋埼灯台と日立灯台は、この計画、つまり<日本灯台紀行>を構想したときから、第一候補群に挙がっていた灯台だ。ちなみに、<第一候補群>というのは、ロケーションのいい、生きているあいだに絶対行くぞ、と思った灯台である。今回の<鵜ノ尾埼灯台>は、残念ながら、その候補からもれた、いわば第二候補群だった。ようするに、機会があれば、ついでに寄ってみようか、といったほどの灯台だった。ま、<鵜ノ尾埼灯台>には失礼な話だが。
この<鵜ノ尾埼灯台>を、今回の旅に加えた理由の一つに、距離的な問題がある。自宅からは340キロ、塩屋埼灯台からは100キロくらいの距離にあり、全行程ほぼ高速走行で、自分のペースでも、五時間以内で到着することができる。ここ何回かの旅で、多少なりとも、運転に自信がついてきた。片道五時間の運転は、さほど苦にならない。
二つ目の理由は、直前のネット画像の再確認で、灯台付近の枯れ果てた樹木が、やけに気になったからだ。<第一候補>選出の際にも、むろん、この光景は見ていたはずである。おそらく、その時は、景観的によろしくない、として却下したのだろう。だが今回、おそらく<ベストポジション>ともいうべき、その画像を見た時、即座に<大津波>を想起した。ちなみに<鵜ノ尾埼灯台>は、福島県相馬市に位置している。
一つ目の<うかつさ>に気づいて、早速、ユーチューブで、相馬港に押し寄せる<大津波>の動画を見た。今回現地入りして、灯台へ行く際に渡るであろう<松川浦大橋>が映っていた。その下を<大津波>が押し寄せてくる。灯台は映っていなかったが、おそらく、あの日の一部始終を、灯台は見ていたに違いない。…いや、その後の、今日までの復興の様子もだ。
もっとも、灯台は断崖の上にあり、津波に襲われたとも思えないが、そうすると、付近にあった枯れ果てた樹木たちは、<大津波>とは関係ないのかもしれない。その辺は、よく考えなかった。いや、考えられなかった。なにしろ、動画での<大津波>のインパクトが強すぎる。
ところで、灯台旅も今回で六回目になる。画像と違い、現地で、巨大な灯台に対面すると、圧倒されるのはもちろんのこと、最近では、その個体差?というか、個性を感じ取ることができるようになった。灯台、という概念ではなく、何々灯台、という唯一無比の存在であることが、なんとなく了解できるようになった。そして、灯台は、その構造物が単体で存在しているのではなく、周囲の環境と一体化しているのだ、ということも理解できるようになった。
ある意味、日当たりの悪い、見通しのない、見映えのしない場所にある灯台もあれば、その逆もある。むろん、写真を撮りたいのは、後者なのだが、だからといって、前者の灯台を無碍にすることができなくなってきた。それも、灯台の個性なのだ。自分が、だんだん<灯台オタク>になっていくのを感じる。ま、いいや。<ミイラ取りがミイラになる>という言葉もあるではないか。
とにかく、景観的にはイマイチと思っていた<鵜ノ尾埼灯台>が、あの<大津波>の目撃者だったということを理解したとたん、俄然撮りに行きたくなった。写真的にはよろしくない、あの枯れ果てた樹木さえもが、灯台の個性と思えるようになったわけだ。
一日目
2020-11-7(土)午前二時四十五分起床。昨晩は、九時すぎに消燈したものの、寝付いたのは日付が変わったころだったと思う。つまり、いくらも寝ていないわけだが、眠くはなかった。着替え、洗面、軽く食事(お茶漬け)。排便はといえば、でなかった。四時出発。一応のお決まり、ニャンコに<行ってくるよ>と声をかける。外はまだ真っ暗だった。
十五分くらいで、最寄りの圏央道のインターに入る。走り出してすぐに菖蒲パーキング、念のためのトイレ。もっとも、出発してからいくらもたってないので、ほとんど出ない。さてと、対向車のヘッドライトが眩しい。夜中の対面通行だ。80~90キロくらいで走っていたのに、バックミラーに、大型トラックのヘッドライトが二つ、みるみる大きくなってきた。おっと、ぶつかってくるのではないか!と恐怖を感じる。あおっている、としか思えないような車間距離だ。
90キロは出ている。振り切るには100キロ以上出せねばなるまい。視界の悪い対面通行では、危険な速度だろう。少なくとも自分にはできない。恐怖の時間がどのくらい続いたのか、よくは覚えていない。だが、そんなに長くはなかったと思う。そのうち、車線が二車線になる。バックミラーを見ると、大型トラックが、ハンドルを切った。自分の脇に来る。だが、俺の車だって、90キロ出ている。トラックは、なかなか前に出られず、高速道路上で、少しの間、並走した。と、その瞬間、目の前にトラックが出てきた。オレンジ色のウィンカーが点滅していたようにも思う。反射的に、アクセルから足を離し、ブレーキを踏みそうになった。
はあ~!!!外はまだ真っ暗だった。なんて野郎だ!若いころに見た<激突>という映画を思い出したよ。道路はまだ二車線だったので、脇を黒っぽいワゴン車が、猛スピードで走り抜けて行く。その小さな赤いテールランプを、何となく目で追っていると、彼方むこうで、ワゴン車のスピードがやや落ちたように思えた。前方に、さっきの大型トラックがいるのだ。ざまあみろ、とまでは思わなかったが、<あおった者が今度はあおられる>。人間社会の縮図だな。少し冷静になった。
その後も、断続的な対面通行や、片側一車線の高速走行が続いた。だが、極端に車間を詰めてくる車は一台もなかった。たまたま、嫌な野郎に出っくわしたんだ。そう思うことにして機嫌を直した。
走り始めてから二時間ほどで、つくばジャンクションに到達した。たしか、辺りが少し明るくなっていたと思う。常磐道下りに入ると、車線が片側三車線になり、急に運転が楽になった。真ん中を、90キロくらいでずうっと走って、水戸、日立、北茨城、と見知った名前の案内板を次々に追い越していった。
単調な高速走行で、いささか飽きた。トイレ休憩したのは、小さなパーキングだった。そこに、何やら、プレハブ小屋が立っていた。<放射線量>がどうのこうのと書いてある。三畳ほどのその小屋に入った。壁に、べたべたといろいろポスターが貼ってある。近寄ってみると、ここから相馬あたりまでだったかな、とにかく、一回走り抜けると0.25デシベルの放射能を浴びることになる、と図解してあった。
ここで初めて、二つ目の<うかつさ>に気づいた。そうだ、<鵜ノ尾埼灯台>へ行くには、あの福島原発の横を通り抜けて行かねばならないのだ。0.25デシベルというのが、どのくらいの放射能なのか、この時は皆目見当もつかなかった。ただ、恐怖を感じたことは確かだ。走り出すとすぐに、高速道路上に掲示板があり、現在の放射線量0.1、と数字が点滅している。おいおいおい、大丈夫なのかよ!その後、広野・楢葉・富岡と通過するに従い、この線量は次第に上がって行った。そしてついに、2.2デシベル!場所的には、あの双葉・浪江あたりだった。
身を乗り出すようにして、両脇の風景を眺めた。もちろん、運転しているので、ちらちらと見ながら走っているわけだ。とにかく、何というか、田畑が荒廃している。点在する民家は、建物自体は健在なのだが、その敷地に、車が一台も止まっていない。なにしろ、ひとの気配が全くしない。ここは、映画の中でしかお目にかかったことのない、放射能で汚染された地域なのだ。
慄然とした。たかだか?2.2デシベルの放射線量でビビった自分が情けなかった。日本の中に、放射能で汚染され、人の住めなくなった場所が、実際にあり、それを目の当たりにしていたのだ。ここで生まれ育った人たちのことを思った。もし、生まれ育った土地を、理不尽にも、追われなければならないとしたら、この緑豊かな場所が、放射能で汚染されてしまったら、自分ならどう思うだろう。はらわたが煮えくり返る思いだ。誰が、どう責任を取るというのだ!
だがしかし、これほどのことをしておきながら、いまだに、だれも責任を取らず、事態がよい方向へ進んでいるとも思えない。日本の中に、空白地域が依然として存在し、先祖代々営々と作り上げ、丹精してきた山間の田畑は、恐ろしいほどに荒廃したままだ。気持ちが暗くなった。人間とは、これほどに愚かなものなのか。
あの南相馬を通り過ぎた。やや、放射線量が落ちてきた。それに、何やら、民家の庭先に車が止まっている。田畑に、かろうじて緑が戻り、丹精の跡が見える。ふと、山間の道に車が走っているのが見えた。正直、ほっとした。とはいえ、この帰宅困難区域は、いったい何十キロ続いていたのだろう。少なくとも、30キロ以上はあったような気がする。ありえない!少し冷静になった頭で考えた。
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