此岸からの風景
<日本灯台紀行 旅日誌>オヤジの灯台巡り一人旅 長~い呟きです
2021
07/01
Thu.
10:12:53
<灯台紀行・旅日誌>2020
Category【灯台紀行 福島・茨城編】
<灯台紀行・旅日誌>2020 福島・茨城編#1
プロローグ~往路
今日は、2020-11-11日の水曜日。昨日の昼頃、旅から帰って来た。これから、福島・茨城編の旅日誌を書くつもりだ。
…塩屋埼灯台と日立灯台は、この計画、つまり<日本灯台紀行>を構想したときから、第一候補群に挙がっていた灯台だ。ちなみに、<第一候補群>というのは、ロケーションのいい、生きているあいだに絶対行くぞ、と思った灯台である。今回の<鵜ノ尾埼灯台>は、残念ながら、その候補からもれた、いわば第二候補群だった。ようするに、機会があれば、ついでに寄ってみようか、といったほどの灯台だった。ま、<鵜ノ尾埼灯台>には失礼な話だが。
この<鵜ノ尾埼灯台>を、今回の旅に加えた理由の一つに、距離的な問題がある。自宅からは340キロ、塩屋埼灯台からは100キロくらいの距離にあり、全行程ほぼ高速走行で、自分のペースでも、五時間以内で到着することができる。ここ何回かの旅で、多少なりとも、運転に自信がついてきた。片道五時間の運転は、さほど苦にならない。
二つ目の理由は、直前のネット画像の再確認で、灯台付近の枯れ果てた樹木が、やけに気になったからだ。<第一候補>選出の際にも、むろん、この光景は見ていたはずである。おそらく、その時は、景観的によろしくない、として却下したのだろう。だが今回、おそらく<ベストポジション>ともいうべき、その画像を見た時、即座に<大津波>を想起した。ちなみに<鵜ノ尾埼灯台>は、福島県相馬市に位置している。
一つ目の<うかつさ>に気づいて、早速、ユーチューブで、相馬港に押し寄せる<大津波>の動画を見た。今回現地入りして、灯台へ行く際に渡るであろう<松川浦大橋>が映っていた。その下を<大津波>が押し寄せてくる。灯台は映っていなかったが、おそらく、あの日の一部始終を、灯台は見ていたに違いない。…いや、その後の、今日までの復興の様子もだ。
もっとも、灯台は断崖の上にあり、津波に襲われたとも思えないが、そうすると、付近にあった枯れ果てた樹木たちは、<大津波>とは関係ないのかもしれない。その辺は、よく考えなかった。いや、考えられなかった。なにしろ、動画での<大津波>のインパクトが強すぎる。
ところで、灯台旅も今回で六回目になる。画像と違い、現地で、巨大な灯台に対面すると、圧倒されるのはもちろんのこと、最近では、その個体差?というか、個性を感じ取ることができるようになった。灯台、という概念ではなく、何々灯台、という唯一無比の存在であることが、なんとなく了解できるようになった。そして、灯台は、その構造物が単体で存在しているのではなく、周囲の環境と一体化しているのだ、ということも理解できるようになった。
ある意味、日当たりの悪い、見通しのない、見映えのしない場所にある灯台もあれば、その逆もある。むろん、写真を撮りたいのは、後者なのだが、だからといって、前者の灯台を無碍にすることができなくなってきた。それも、灯台の個性なのだ。自分が、だんだん<灯台オタク>になっていくのを感じる。ま、いいや。<ミイラ取りがミイラになる>という言葉もあるではないか。
とにかく、景観的にはイマイチと思っていた<鵜ノ尾埼灯台>が、あの<大津波>の目撃者だったということを理解したとたん、俄然撮りに行きたくなった。写真的にはよろしくない、あの枯れ果てた樹木さえもが、灯台の個性と思えるようになったわけだ。
一日目
2020-11-7(土)午前二時四十五分起床。昨晩は、九時すぎに消燈したものの、寝付いたのは日付が変わったころだったと思う。つまり、いくらも寝ていないわけだが、眠くはなかった。着替え、洗面、軽く食事(お茶漬け)。排便はといえば、でなかった。四時出発。一応のお決まり、ニャンコに<行ってくるよ>と声をかける。外はまだ真っ暗だった。
十五分くらいで、最寄りの圏央道のインターに入る。走り出してすぐに菖蒲パーキング、念のためのトイレ。もっとも、出発してからいくらもたってないので、ほとんど出ない。さてと、対向車のヘッドライトが眩しい。夜中の対面通行だ。80~90キロくらいで走っていたのに、バックミラーに、大型トラックのヘッドライトが二つ、みるみる大きくなってきた。おっと、ぶつかってくるのではないか!と恐怖を感じる。あおっている、としか思えないような車間距離だ。
90キロは出ている。振り切るには100キロ以上出せねばなるまい。視界の悪い対面通行では、危険な速度だろう。少なくとも自分にはできない。恐怖の時間がどのくらい続いたのか、よくは覚えていない。だが、そんなに長くはなかったと思う。そのうち、車線が二車線になる。バックミラーを見ると、大型トラックが、ハンドルを切った。自分の脇に来る。だが、俺の車だって、90キロ出ている。トラックは、なかなか前に出られず、高速道路上で、少しの間、並走した。と、その瞬間、目の前にトラックが出てきた。オレンジ色のウィンカーが点滅していたようにも思う。反射的に、アクセルから足を離し、ブレーキを踏みそうになった。
はあ~!!!外はまだ真っ暗だった。なんて野郎だ!若いころに見た<激突>という映画を思い出したよ。道路はまだ二車線だったので、脇を黒っぽいワゴン車が、猛スピードで走り抜けて行く。その小さな赤いテールランプを、何となく目で追っていると、彼方むこうで、ワゴン車のスピードがやや落ちたように思えた。前方に、さっきの大型トラックがいるのだ。ざまあみろ、とまでは思わなかったが、<あおった者が今度はあおられる>。人間社会の縮図だな。少し冷静になった。
その後も、断続的な対面通行や、片側一車線の高速走行が続いた。だが、極端に車間を詰めてくる車は一台もなかった。たまたま、嫌な野郎に出っくわしたんだ。そう思うことにして機嫌を直した。
走り始めてから二時間ほどで、つくばジャンクションに到達した。たしか、辺りが少し明るくなっていたと思う。常磐道下りに入ると、車線が片側三車線になり、急に運転が楽になった。真ん中を、90キロくらいでずうっと走って、水戸、日立、北茨城、と見知った名前の案内板を次々に追い越していった。
単調な高速走行で、いささか飽きた。トイレ休憩したのは、小さなパーキングだった。そこに、何やら、プレハブ小屋が立っていた。<放射線量>がどうのこうのと書いてある。三畳ほどのその小屋に入った。壁に、べたべたといろいろポスターが貼ってある。近寄ってみると、ここから相馬あたりまでだったかな、とにかく、一回走り抜けると0.25デシベルの放射能を浴びることになる、と図解してあった。
ここで初めて、二つ目の<うかつさ>に気づいた。そうだ、<鵜ノ尾埼灯台>へ行くには、あの福島原発の横を通り抜けて行かねばならないのだ。0.25デシベルというのが、どのくらいの放射能なのか、この時は皆目見当もつかなかった。ただ、恐怖を感じたことは確かだ。走り出すとすぐに、高速道路上に掲示板があり、現在の放射線量0.1、と数字が点滅している。おいおいおい、大丈夫なのかよ!その後、広野・楢葉・富岡と通過するに従い、この線量は次第に上がって行った。そしてついに、2.2デシベル!場所的には、あの双葉・浪江あたりだった。
身を乗り出すようにして、両脇の風景を眺めた。もちろん、運転しているので、ちらちらと見ながら走っているわけだ。とにかく、何というか、田畑が荒廃している。点在する民家は、建物自体は健在なのだが、その敷地に、車が一台も止まっていない。なにしろ、ひとの気配が全くしない。ここは、映画の中でしかお目にかかったことのない、放射能で汚染された地域なのだ。
慄然とした。たかだか?2.2デシベルの放射線量でビビった自分が情けなかった。日本の中に、放射能で汚染され、人の住めなくなった場所が、実際にあり、それを目の当たりにしていたのだ。ここで生まれ育った人たちのことを思った。もし、生まれ育った土地を、理不尽にも、追われなければならないとしたら、この緑豊かな場所が、放射能で汚染されてしまったら、自分ならどう思うだろう。はらわたが煮えくり返る思いだ。誰が、どう責任を取るというのだ!
だがしかし、これほどのことをしておきながら、いまだに、だれも責任を取らず、事態がよい方向へ進んでいるとも思えない。日本の中に、空白地域が依然として存在し、先祖代々営々と作り上げ、丹精してきた山間の田畑は、恐ろしいほどに荒廃したままだ。気持ちが暗くなった。人間とは、これほどに愚かなものなのか。
あの南相馬を通り過ぎた。やや、放射線量が落ちてきた。それに、何やら、民家の庭先に車が止まっている。田畑に、かろうじて緑が戻り、丹精の跡が見える。ふと、山間の道に車が走っているのが見えた。正直、ほっとした。とはいえ、この帰宅困難区域は、いったい何十キロ続いていたのだろう。少なくとも、30キロ以上はあったような気がする。ありえない!少し冷静になった頭で考えた。
プロローグ~往路
今日は、2020-11-11日の水曜日。昨日の昼頃、旅から帰って来た。これから、福島・茨城編の旅日誌を書くつもりだ。
…塩屋埼灯台と日立灯台は、この計画、つまり<日本灯台紀行>を構想したときから、第一候補群に挙がっていた灯台だ。ちなみに、<第一候補群>というのは、ロケーションのいい、生きているあいだに絶対行くぞ、と思った灯台である。今回の<鵜ノ尾埼灯台>は、残念ながら、その候補からもれた、いわば第二候補群だった。ようするに、機会があれば、ついでに寄ってみようか、といったほどの灯台だった。ま、<鵜ノ尾埼灯台>には失礼な話だが。
この<鵜ノ尾埼灯台>を、今回の旅に加えた理由の一つに、距離的な問題がある。自宅からは340キロ、塩屋埼灯台からは100キロくらいの距離にあり、全行程ほぼ高速走行で、自分のペースでも、五時間以内で到着することができる。ここ何回かの旅で、多少なりとも、運転に自信がついてきた。片道五時間の運転は、さほど苦にならない。
二つ目の理由は、直前のネット画像の再確認で、灯台付近の枯れ果てた樹木が、やけに気になったからだ。<第一候補>選出の際にも、むろん、この光景は見ていたはずである。おそらく、その時は、景観的によろしくない、として却下したのだろう。だが今回、おそらく<ベストポジション>ともいうべき、その画像を見た時、即座に<大津波>を想起した。ちなみに<鵜ノ尾埼灯台>は、福島県相馬市に位置している。
一つ目の<うかつさ>に気づいて、早速、ユーチューブで、相馬港に押し寄せる<大津波>の動画を見た。今回現地入りして、灯台へ行く際に渡るであろう<松川浦大橋>が映っていた。その下を<大津波>が押し寄せてくる。灯台は映っていなかったが、おそらく、あの日の一部始終を、灯台は見ていたに違いない。…いや、その後の、今日までの復興の様子もだ。
もっとも、灯台は断崖の上にあり、津波に襲われたとも思えないが、そうすると、付近にあった枯れ果てた樹木たちは、<大津波>とは関係ないのかもしれない。その辺は、よく考えなかった。いや、考えられなかった。なにしろ、動画での<大津波>のインパクトが強すぎる。
ところで、灯台旅も今回で六回目になる。画像と違い、現地で、巨大な灯台に対面すると、圧倒されるのはもちろんのこと、最近では、その個体差?というか、個性を感じ取ることができるようになった。灯台、という概念ではなく、何々灯台、という唯一無比の存在であることが、なんとなく了解できるようになった。そして、灯台は、その構造物が単体で存在しているのではなく、周囲の環境と一体化しているのだ、ということも理解できるようになった。
ある意味、日当たりの悪い、見通しのない、見映えのしない場所にある灯台もあれば、その逆もある。むろん、写真を撮りたいのは、後者なのだが、だからといって、前者の灯台を無碍にすることができなくなってきた。それも、灯台の個性なのだ。自分が、だんだん<灯台オタク>になっていくのを感じる。ま、いいや。<ミイラ取りがミイラになる>という言葉もあるではないか。
とにかく、景観的にはイマイチと思っていた<鵜ノ尾埼灯台>が、あの<大津波>の目撃者だったということを理解したとたん、俄然撮りに行きたくなった。写真的にはよろしくない、あの枯れ果てた樹木さえもが、灯台の個性と思えるようになったわけだ。
一日目
2020-11-7(土)午前二時四十五分起床。昨晩は、九時すぎに消燈したものの、寝付いたのは日付が変わったころだったと思う。つまり、いくらも寝ていないわけだが、眠くはなかった。着替え、洗面、軽く食事(お茶漬け)。排便はといえば、でなかった。四時出発。一応のお決まり、ニャンコに<行ってくるよ>と声をかける。外はまだ真っ暗だった。
十五分くらいで、最寄りの圏央道のインターに入る。走り出してすぐに菖蒲パーキング、念のためのトイレ。もっとも、出発してからいくらもたってないので、ほとんど出ない。さてと、対向車のヘッドライトが眩しい。夜中の対面通行だ。80~90キロくらいで走っていたのに、バックミラーに、大型トラックのヘッドライトが二つ、みるみる大きくなってきた。おっと、ぶつかってくるのではないか!と恐怖を感じる。あおっている、としか思えないような車間距離だ。
90キロは出ている。振り切るには100キロ以上出せねばなるまい。視界の悪い対面通行では、危険な速度だろう。少なくとも自分にはできない。恐怖の時間がどのくらい続いたのか、よくは覚えていない。だが、そんなに長くはなかったと思う。そのうち、車線が二車線になる。バックミラーを見ると、大型トラックが、ハンドルを切った。自分の脇に来る。だが、俺の車だって、90キロ出ている。トラックは、なかなか前に出られず、高速道路上で、少しの間、並走した。と、その瞬間、目の前にトラックが出てきた。オレンジ色のウィンカーが点滅していたようにも思う。反射的に、アクセルから足を離し、ブレーキを踏みそうになった。
はあ~!!!外はまだ真っ暗だった。なんて野郎だ!若いころに見た<激突>という映画を思い出したよ。道路はまだ二車線だったので、脇を黒っぽいワゴン車が、猛スピードで走り抜けて行く。その小さな赤いテールランプを、何となく目で追っていると、彼方むこうで、ワゴン車のスピードがやや落ちたように思えた。前方に、さっきの大型トラックがいるのだ。ざまあみろ、とまでは思わなかったが、<あおった者が今度はあおられる>。人間社会の縮図だな。少し冷静になった。
その後も、断続的な対面通行や、片側一車線の高速走行が続いた。だが、極端に車間を詰めてくる車は一台もなかった。たまたま、嫌な野郎に出っくわしたんだ。そう思うことにして機嫌を直した。
走り始めてから二時間ほどで、つくばジャンクションに到達した。たしか、辺りが少し明るくなっていたと思う。常磐道下りに入ると、車線が片側三車線になり、急に運転が楽になった。真ん中を、90キロくらいでずうっと走って、水戸、日立、北茨城、と見知った名前の案内板を次々に追い越していった。
単調な高速走行で、いささか飽きた。トイレ休憩したのは、小さなパーキングだった。そこに、何やら、プレハブ小屋が立っていた。<放射線量>がどうのこうのと書いてある。三畳ほどのその小屋に入った。壁に、べたべたといろいろポスターが貼ってある。近寄ってみると、ここから相馬あたりまでだったかな、とにかく、一回走り抜けると0.25デシベルの放射能を浴びることになる、と図解してあった。
ここで初めて、二つ目の<うかつさ>に気づいた。そうだ、<鵜ノ尾埼灯台>へ行くには、あの福島原発の横を通り抜けて行かねばならないのだ。0.25デシベルというのが、どのくらいの放射能なのか、この時は皆目見当もつかなかった。ただ、恐怖を感じたことは確かだ。走り出すとすぐに、高速道路上に掲示板があり、現在の放射線量0.1、と数字が点滅している。おいおいおい、大丈夫なのかよ!その後、広野・楢葉・富岡と通過するに従い、この線量は次第に上がって行った。そしてついに、2.2デシベル!場所的には、あの双葉・浪江あたりだった。
身を乗り出すようにして、両脇の風景を眺めた。もちろん、運転しているので、ちらちらと見ながら走っているわけだ。とにかく、何というか、田畑が荒廃している。点在する民家は、建物自体は健在なのだが、その敷地に、車が一台も止まっていない。なにしろ、ひとの気配が全くしない。ここは、映画の中でしかお目にかかったことのない、放射能で汚染された地域なのだ。
慄然とした。たかだか?2.2デシベルの放射線量でビビった自分が情けなかった。日本の中に、放射能で汚染され、人の住めなくなった場所が、実際にあり、それを目の当たりにしていたのだ。ここで生まれ育った人たちのことを思った。もし、生まれ育った土地を、理不尽にも、追われなければならないとしたら、この緑豊かな場所が、放射能で汚染されてしまったら、自分ならどう思うだろう。はらわたが煮えくり返る思いだ。誰が、どう責任を取るというのだ!
だがしかし、これほどのことをしておきながら、いまだに、だれも責任を取らず、事態がよい方向へ進んでいるとも思えない。日本の中に、空白地域が依然として存在し、先祖代々営々と作り上げ、丹精してきた山間の田畑は、恐ろしいほどに荒廃したままだ。気持ちが暗くなった。人間とは、これほどに愚かなものなのか。
あの南相馬を通り過ぎた。やや、放射線量が落ちてきた。それに、何やら、民家の庭先に車が止まっている。田畑に、かろうじて緑が戻り、丹精の跡が見える。ふと、山間の道に車が走っているのが見えた。正直、ほっとした。とはいえ、この帰宅困難区域は、いったい何十キロ続いていたのだろう。少なくとも、30キロ以上はあったような気がする。ありえない!少し冷静になった頭で考えた。
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