此岸からの風景
<日本灯台紀行 旅日誌>オヤジの灯台巡り一人旅 長~い呟きです
2021
08/25
Wed.
10:43:09
<灯台紀行・旅日誌>2020
Category【灯台紀行 福島・茨城編】
<灯台紀行・旅日誌>2020福島・茨城編#5
高速走行~塩屋岬灯台撮影1
二日目
<6時前に起きる 昨晩夜8時前後に物音 人の出入り うるさい 夜中になってからは静か ほぼ1時間おきにトイレ>。あまり、よく眠れた感じでもなかった。だが、何しろ、寝たのが早い。おそらく、九時過ぎには寝ていただろう。眠りは浅いが、時間的には十分だ。それに、お決まりのように、六時過ぎたころから、ガタガタうるさいのがビジネスホテルだ。ぐずぐずしないで、さっと起きた、ような気がする。まずテレビをつけ、さっと洗面をすませた。朝食は菓子パンと牛乳、それと、持ち込んだ、皮をむくと、ところどころ黒くなっているバナナ。たいして腹も空いていない。これで十分だ。
排便を試みたが、ほんの少ししか出なかった。着替えて、荷物整理。それと、ざっと部屋の整頓。最後に、これもお決まり、部屋の写真を撮った。窓は嵌め込み式で、細い針金の入った強化ガラスだった。見ると、街並みの向こうに低い山並みが見える。少し紅葉している。左から朝日が昇っているようで、町全体が仄かなオレンジ色に染まり、建物に長い影ができている。いわば、地方都市の、静かな朝だ。窓越しに、何枚か撮った。この時<大震災>のことは、まったく失念していた。
<7:00 出発 近くのローソンで地域クーポン¥1000 消化 (鯖缶3 牛乳 おにぎり)>。付け加えよう。地域クーポン券で、夕食などの食料を調達するのが、一番経済的だと思った。だが、朝っぱらから、夕食の弁当を買うわけにもいかないだろう。車の中に置いておく時間が長すぎる。それと、クーポン券は相馬市でしか使えないのだ。このまま高速移動してしまえば、無駄になる。で、常備食糧である<鯖缶>なら、買っておいても無駄にはなるまい、と考えたわけだ。小者の考えそうなことだ。何とでも言え!
<7:20 高速>。相馬インターから小一時間、高速走行。今日は、昨日来た時とは違い、放射線量に対する恐怖心もなく、興奮もしていなかったので、帰宅困難区域の惨状を、運転しながらではあるが、じっくり見定めた。まずもって、整然と区画されている田畑が、草ぼうぼう。住居は健在だが、人の気配が全くしない。これは昨日も見た光景だ。さらに今日は、変にのっぺりした、更地になった田畑だ。そのすぐ横は草ぼうぼう。なるほど、そばに除染した土嚢袋が並んでいる。
なんだか、頭がくらくらした。あんなことをやっても、無駄なのではないか。いや、無駄ではないかもしれないが、どのくらいの時間と労力がかかるのだろう。おそらく、誰も答えることはできまい。田畑の除染がいかほど有効なのか。さらに、広大な森や林は、除染の対象にはならないのか。畢竟、除染は田畑だけでいいのか。放射能で汚染された土地と空間はどうなるのか。もっと言えば、そこで生息している生き物や植物はどうなるのか。何もかもがデタラメで、小役人が小細工を弄しているようにしか思えなかった。世界の空白、喪失、人間への不信感で、頭が膨れていくような気がした。
<四倉>で高速を降りた。たしか、来る時にトイレ休憩した小さなパーキングの名前も<四倉>だった。料金は¥1500くらいだった。一般道に入った。そこは、田畑の中をうねうね行く、交通量の少ない地方道だった。すぐそばに低い山並みが見える。旅に出れば、よく出くわす、見慣れた光景で、刈り取りの終わった稲田は、どこか清々していて、長閑だ。生命力がありすぎて、刈り取られた後でも成長し続け、青葉が出てくる。以前、農夫から聞いた話で、秋冬に、稲田が緑になっている理由だ。唐突だが、<いのち>のかけがえのなさを思った。それゆえに、なおさら、憤怒した。
塩屋埼灯台の案内標識が出てきた。左手に海が見えてきたと思う。と、彼方向こうの岬の上に、逆光でぼうっとしている灯台が見えた。防潮堤沿いに広めの駐車場があり、トイレらしき建物も見える。車を入れる。外に出て、望遠で灯台を狙うが、遠目過ぎて勝負にならない。しかも、モロ逆光だ。用を足して、すぐに道に戻る。
さらに、海岸沿いの広い道を進んでいくと、何やら、ガードマンがいて、通行禁止らしい。窓開けると、女性のガードマンが来て、この先は、灯台までしか行けません、と言う。灯台を撮りに来たんで、と言って通してもらう。左側は依然として巨大な防潮堤。駐車スペースはあるものの、柵で仕切りがしてある。止めることはできない。そのまま突き当りまで行く。
土産物店らしき建物があり、駐車場になっている。ネットで見た、美空ひばりの碑と、写真付きの大きな掲示板もある。ちなみに、なんで<美空ひばり>なのかと言えば、<みだれ髪>という曲が塩屋岬を題材にしているからだ。写真付きの黒御影の碑の前に立つと、あとで知ったことだが、センサーがついていて、ひばりちゃんの歌声が流れる仕掛けになっている。若い頃、美空ひばりの歌はひと通り聞きこんでいたので、むろん、<みだれ髪>も知っている。サビの♪塩屋の岬♪の部分は、頭にこびりついている。昭和の大歌姫、日本の女性歌手の中では一番好きかもしれない。なにしろ、歌がうまい!
戻そう。ちょうど、灯台への上がり口の前が空いていた。駐車して、装備を整え、いざ出発、灯台に登り始めた。これが意外に急で長い。途中に眺めのいい所があったので、一息入れた。北東側の海だ。きれいに弧を描いた砂浜があり、海の中に、白い防波堤灯台らしきものが見える。ここにも<大津波>が押し寄せてきたのだろう。海沿いの、今さっき通ってきた広い道は、真新しい高さ五メートル以上もある防潮堤で、がっちり守られていた。いちおう、首にかけているカメラで、この光景を何枚か撮った。ただ、新設された道路や防潮堤は、いまだに、この景観の中に溶け込めていないようで、少し違和感を感じた。
さらに登っていくと、視界が開け、目の前に、背の高いステンレスの柵が見えた。どうやら、灯台敷地の入り口だ。その手前は、やや広い、コンクリのたたきで、まず目に入ったのは、白い大きなラッパだ。これは、灯台巡りを始めてからは、よく目にするもので、<霧笛>だね。あとは、断崖側に柵があり、その向こうに、岬に立つ白い灯台が見える。長い紐にくっついている万国旗が風になびいている。十一月の一日が、<灯台の日>だそうで、なにか催しをやったのだろう。その名残だな。
さっそく、柵に肘を立てて、何枚か撮った。だが、逆光気味で、よろしくない。ポーチに結び付けている<磁石>を見たのかもしれない。太陽の位置を確かめた。おそらく、午後になり、陽が傾けば、順光になり、灯台に日が差すはずだ。余裕だった。何しろ、今日は、陽が沈むまで、灯台で粘るつもりだったのだ。
灯台の敷地をがっちりガードしているステンレスの門をくぐった。左手が受付、正面右には、東屋があり、その下にテーブルとベンチも置かれている。なるほど、目の前は海だから、最高の休憩場所だ。受付で、念のために聞いてみた。あとでまた灯台を撮りに来るので、再入場できますか、と。大丈夫です、と受付のおばさんの声が聞こえた。しぶしぶ、というよりは、快く承諾してくれた感じが声音でわかった。ちなみに、自分のおばさんへの言葉は、実際には、ここで記述したようなものではなかったはずだ。もっと、何というか、要領を得ない、まどろっこしい日本語だったと思う。もっとも、こちらの真意は伝えられたのだから、問題はない。だが、もう少し、ゆっくり、言葉を選んでちゃんと話すことだってできたはずだ。それができない自分が、バカに思えることもある。しかし、また一方では、真意が伝われば、バカに思われてもいいや、と開き直っている自分もいるのだ。
¥300、払って、建物の横から灯台へ向かう広めの階段道に入った。両側が、やはりステンレスの柵で、そこに、地元の小学生たちだろう、子供たちが描いた灯台の絵がずらりと並べられていた。その絵たちに興味を持ったが、まずは灯台撮影だ。いつもの作戦で、撮り歩きを始めた。しかしね~、これはむずかしい!まずもって、階段道は、灯台と直線で結ばれているわけではなく、正確には、灯台入り口前の、ちょっとした広場へ向かっているのだ。
どういうことかと言えば、画面に、必ず、階段道の柵が入ってしまうのだ。断崖側の柵から身を乗り出してもだめで、いっそのこと乗り越えようかとさえ思った。だが、さすがにこれは自制した。人目をはばかる行為で、観光客がひっきりなしだ。それに、柵と断崖との間は、きれいに整地された、二メートル幅くらいの赤土で、足場の確保もおぼつかない。柵があるのには理由があるのだ。
なるほどね、ネットで見た写真が、みなイマイチなのが、よ~く理解できた。つまり、この階段道からの写真は、誰がどう撮っても写真にならないんだ。ま、それに、明かりの具合も、やや逆光気味。なんだか、緊張の糸が切れてしまった。いちおう、海側の柵に寄りかかりながら、眼下の、防波堤灯台を望遠で狙ったりもした。もっとも、こっちは、まるっきりの逆光で、全然写真にならない。
おそらく、ここまで、これといった写真は、一枚も撮れないまま、灯台本体の入り口まで来てしまった。もう、灯台の全景は撮れない。巨大すぎて、カメラの画面にはおさまらないのだ。ま、それでも、灯台の周りを、360度歩いた。白い胴体を見上げては、風になびく万国旗などをしつこく撮った。灯台写真というよりは、素人の観光写真だね。
高速走行~塩屋岬灯台撮影1
二日目
<6時前に起きる 昨晩夜8時前後に物音 人の出入り うるさい 夜中になってからは静か ほぼ1時間おきにトイレ>。あまり、よく眠れた感じでもなかった。だが、何しろ、寝たのが早い。おそらく、九時過ぎには寝ていただろう。眠りは浅いが、時間的には十分だ。それに、お決まりのように、六時過ぎたころから、ガタガタうるさいのがビジネスホテルだ。ぐずぐずしないで、さっと起きた、ような気がする。まずテレビをつけ、さっと洗面をすませた。朝食は菓子パンと牛乳、それと、持ち込んだ、皮をむくと、ところどころ黒くなっているバナナ。たいして腹も空いていない。これで十分だ。
排便を試みたが、ほんの少ししか出なかった。着替えて、荷物整理。それと、ざっと部屋の整頓。最後に、これもお決まり、部屋の写真を撮った。窓は嵌め込み式で、細い針金の入った強化ガラスだった。見ると、街並みの向こうに低い山並みが見える。少し紅葉している。左から朝日が昇っているようで、町全体が仄かなオレンジ色に染まり、建物に長い影ができている。いわば、地方都市の、静かな朝だ。窓越しに、何枚か撮った。この時<大震災>のことは、まったく失念していた。
<7:00 出発 近くのローソンで地域クーポン¥1000 消化 (鯖缶3 牛乳 おにぎり)>。付け加えよう。地域クーポン券で、夕食などの食料を調達するのが、一番経済的だと思った。だが、朝っぱらから、夕食の弁当を買うわけにもいかないだろう。車の中に置いておく時間が長すぎる。それと、クーポン券は相馬市でしか使えないのだ。このまま高速移動してしまえば、無駄になる。で、常備食糧である<鯖缶>なら、買っておいても無駄にはなるまい、と考えたわけだ。小者の考えそうなことだ。何とでも言え!
<7:20 高速>。相馬インターから小一時間、高速走行。今日は、昨日来た時とは違い、放射線量に対する恐怖心もなく、興奮もしていなかったので、帰宅困難区域の惨状を、運転しながらではあるが、じっくり見定めた。まずもって、整然と区画されている田畑が、草ぼうぼう。住居は健在だが、人の気配が全くしない。これは昨日も見た光景だ。さらに今日は、変にのっぺりした、更地になった田畑だ。そのすぐ横は草ぼうぼう。なるほど、そばに除染した土嚢袋が並んでいる。
なんだか、頭がくらくらした。あんなことをやっても、無駄なのではないか。いや、無駄ではないかもしれないが、どのくらいの時間と労力がかかるのだろう。おそらく、誰も答えることはできまい。田畑の除染がいかほど有効なのか。さらに、広大な森や林は、除染の対象にはならないのか。畢竟、除染は田畑だけでいいのか。放射能で汚染された土地と空間はどうなるのか。もっと言えば、そこで生息している生き物や植物はどうなるのか。何もかもがデタラメで、小役人が小細工を弄しているようにしか思えなかった。世界の空白、喪失、人間への不信感で、頭が膨れていくような気がした。
<四倉>で高速を降りた。たしか、来る時にトイレ休憩した小さなパーキングの名前も<四倉>だった。料金は¥1500くらいだった。一般道に入った。そこは、田畑の中をうねうね行く、交通量の少ない地方道だった。すぐそばに低い山並みが見える。旅に出れば、よく出くわす、見慣れた光景で、刈り取りの終わった稲田は、どこか清々していて、長閑だ。生命力がありすぎて、刈り取られた後でも成長し続け、青葉が出てくる。以前、農夫から聞いた話で、秋冬に、稲田が緑になっている理由だ。唐突だが、<いのち>のかけがえのなさを思った。それゆえに、なおさら、憤怒した。
塩屋埼灯台の案内標識が出てきた。左手に海が見えてきたと思う。と、彼方向こうの岬の上に、逆光でぼうっとしている灯台が見えた。防潮堤沿いに広めの駐車場があり、トイレらしき建物も見える。車を入れる。外に出て、望遠で灯台を狙うが、遠目過ぎて勝負にならない。しかも、モロ逆光だ。用を足して、すぐに道に戻る。
さらに、海岸沿いの広い道を進んでいくと、何やら、ガードマンがいて、通行禁止らしい。窓開けると、女性のガードマンが来て、この先は、灯台までしか行けません、と言う。灯台を撮りに来たんで、と言って通してもらう。左側は依然として巨大な防潮堤。駐車スペースはあるものの、柵で仕切りがしてある。止めることはできない。そのまま突き当りまで行く。
土産物店らしき建物があり、駐車場になっている。ネットで見た、美空ひばりの碑と、写真付きの大きな掲示板もある。ちなみに、なんで<美空ひばり>なのかと言えば、<みだれ髪>という曲が塩屋岬を題材にしているからだ。写真付きの黒御影の碑の前に立つと、あとで知ったことだが、センサーがついていて、ひばりちゃんの歌声が流れる仕掛けになっている。若い頃、美空ひばりの歌はひと通り聞きこんでいたので、むろん、<みだれ髪>も知っている。サビの♪塩屋の岬♪の部分は、頭にこびりついている。昭和の大歌姫、日本の女性歌手の中では一番好きかもしれない。なにしろ、歌がうまい!
戻そう。ちょうど、灯台への上がり口の前が空いていた。駐車して、装備を整え、いざ出発、灯台に登り始めた。これが意外に急で長い。途中に眺めのいい所があったので、一息入れた。北東側の海だ。きれいに弧を描いた砂浜があり、海の中に、白い防波堤灯台らしきものが見える。ここにも<大津波>が押し寄せてきたのだろう。海沿いの、今さっき通ってきた広い道は、真新しい高さ五メートル以上もある防潮堤で、がっちり守られていた。いちおう、首にかけているカメラで、この光景を何枚か撮った。ただ、新設された道路や防潮堤は、いまだに、この景観の中に溶け込めていないようで、少し違和感を感じた。
さらに登っていくと、視界が開け、目の前に、背の高いステンレスの柵が見えた。どうやら、灯台敷地の入り口だ。その手前は、やや広い、コンクリのたたきで、まず目に入ったのは、白い大きなラッパだ。これは、灯台巡りを始めてからは、よく目にするもので、<霧笛>だね。あとは、断崖側に柵があり、その向こうに、岬に立つ白い灯台が見える。長い紐にくっついている万国旗が風になびいている。十一月の一日が、<灯台の日>だそうで、なにか催しをやったのだろう。その名残だな。
さっそく、柵に肘を立てて、何枚か撮った。だが、逆光気味で、よろしくない。ポーチに結び付けている<磁石>を見たのかもしれない。太陽の位置を確かめた。おそらく、午後になり、陽が傾けば、順光になり、灯台に日が差すはずだ。余裕だった。何しろ、今日は、陽が沈むまで、灯台で粘るつもりだったのだ。
灯台の敷地をがっちりガードしているステンレスの門をくぐった。左手が受付、正面右には、東屋があり、その下にテーブルとベンチも置かれている。なるほど、目の前は海だから、最高の休憩場所だ。受付で、念のために聞いてみた。あとでまた灯台を撮りに来るので、再入場できますか、と。大丈夫です、と受付のおばさんの声が聞こえた。しぶしぶ、というよりは、快く承諾してくれた感じが声音でわかった。ちなみに、自分のおばさんへの言葉は、実際には、ここで記述したようなものではなかったはずだ。もっと、何というか、要領を得ない、まどろっこしい日本語だったと思う。もっとも、こちらの真意は伝えられたのだから、問題はない。だが、もう少し、ゆっくり、言葉を選んでちゃんと話すことだってできたはずだ。それができない自分が、バカに思えることもある。しかし、また一方では、真意が伝われば、バカに思われてもいいや、と開き直っている自分もいるのだ。
¥300、払って、建物の横から灯台へ向かう広めの階段道に入った。両側が、やはりステンレスの柵で、そこに、地元の小学生たちだろう、子供たちが描いた灯台の絵がずらりと並べられていた。その絵たちに興味を持ったが、まずは灯台撮影だ。いつもの作戦で、撮り歩きを始めた。しかしね~、これはむずかしい!まずもって、階段道は、灯台と直線で結ばれているわけではなく、正確には、灯台入り口前の、ちょっとした広場へ向かっているのだ。
どういうことかと言えば、画面に、必ず、階段道の柵が入ってしまうのだ。断崖側の柵から身を乗り出してもだめで、いっそのこと乗り越えようかとさえ思った。だが、さすがにこれは自制した。人目をはばかる行為で、観光客がひっきりなしだ。それに、柵と断崖との間は、きれいに整地された、二メートル幅くらいの赤土で、足場の確保もおぼつかない。柵があるのには理由があるのだ。
なるほどね、ネットで見た写真が、みなイマイチなのが、よ~く理解できた。つまり、この階段道からの写真は、誰がどう撮っても写真にならないんだ。ま、それに、明かりの具合も、やや逆光気味。なんだか、緊張の糸が切れてしまった。いちおう、海側の柵に寄りかかりながら、眼下の、防波堤灯台を望遠で狙ったりもした。もっとも、こっちは、まるっきりの逆光で、全然写真にならない。
おそらく、ここまで、これといった写真は、一枚も撮れないまま、灯台本体の入り口まで来てしまった。もう、灯台の全景は撮れない。巨大すぎて、カメラの画面にはおさまらないのだ。ま、それでも、灯台の周りを、360度歩いた。白い胴体を見上げては、風になびく万国旗などをしつこく撮った。灯台写真というよりは、素人の観光写真だね。
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2021
08/11
Wed.
10:20:10
<灯台紀行・旅日誌>2020
Category【灯台紀行 福島・茨城編】
<灯台紀行・旅日誌>2020福島・茨城編#4
鵜ノ尾埼灯台撮影3~ホテル
悪路、というか、人間の歩行の限界を試しているかような場所から、やっとのことで、滑りも転びもせず、砂浜にたどり着いた。陽が少し西に傾いている。海の中にいるサーファーの数も減っていた。週三日のジム通いで、年寄りなりに、足腰は鍛えているつもりだったが、その根拠のない自信はもろくも崩れていた。膝がガクガクなのだ。
だが、もうひと頑張りだ。いや頑張ろうとすら思わなかった。あたりまえのように、また、<鵜ノ尾岬灯台>へ向かった。漁港を出て、先ほど浜辺から見た短いトンネルをくぐった。今日二回目の灯台下の駐車場だ。車がけっこう止まっている。たしか、カメラ二台だけ持って岬を登り始めたのだと思う。いや、忘れた。カメラバックに三脚は取りつけず、中に飲料水だけを入れて背負っていたのかもしれない。
残念なことに、雲が出てきた。午前中と同じ道順で、灯台を撮りながら、岬を巡った。家族連れに何組か遭遇した。印象に残っているのは、<へりおす>の碑から、とって返した時、向こうから来た、老年夫婦と会釈して、二言三言、言葉を交わしたことだ。はじめ、十メートルくらい先に、旦那が見えた。勘違いかも知れないが、こちらに何度も、会釈しているように見えた。そのあと互いに近づいて、すれ違いざまに、<こんにちは>と言葉を交わした。腰の低い、純朴で穏やかな旦那だった。
さらに、旦那の少し後ろの方にいた奥さんが、<どちらから来たんですか>と話しかけてきた。<埼玉からです><そうですか>。気弱な旦那を支えている、気丈な農家の母ちゃん、という感じがした。自分としては珍しく<今日は、風もなくていい天気ですね>とお愛想を言った。
老夫婦が柵沿いに並んで、岬の灯台を見ている。立ち去りながら、その姿を背中で感じた。よい人たちに出会ったと仄かに思った。
一度、正確には二度、灯台の周りを巡っているので、今回で三度目だ。撮影ポイントは、おおよそわかっていたから、あせることもなく、余裕をもって撮り歩いた。午前の撮影と違い、雲が出てきて、明かりの具合がよくない。そのうち、これ以上撮っても無駄、と判断した。そのあとは、少し観光気分になって、写真撮影を楽しんだ。
引き上げ際、岬の中ほどの山道で立ち止まった。眼下の<松川浦>がオレンジ色に染まりかけている。静かな湖面に、規則正しく細い棒のようなものが並んでいる。あとで知ったが、海苔の養殖をしているようだ。ただ、その中の浮島には、枝だけになった樹木たちのシルエットが見えた。<大津波>に襲われ、生き残った樹木たちだと思った。さらに、ほかにも、やや大きめな浮島がいくつかある。じいっと見た。コンクリで周囲を修繕してある。景観的にどうのこうの、というよりは、なにか無残な感じがした。と同時に、郷土の美しい景観を愛し、懸命に保存しようとしている人間の心を感じた。
さらに、岬を下りたあたり、断崖の窪みに、比較的新しいお地蔵さんたちが、いっぱい並んでいた。案内板を斜め読みしたが、頭に入ってこなかった。幸い写真に撮っておいたので、帰宅後に読むことができた。一度目は戦争、二度目は<大震災>で荒廃してしまった地蔵尊を、その都度、地元の有志が再興してきたようだ。最果ての岬に、ひっそりたたずむ石仏たちには、人間の祈りが込められていたのだ。
静かで、美しい夕景だった。最後に、もう一度、漁港に入って、防波堤から、岬に立つ灯台を狙った。もしかしたら、雲間からの夕陽が、白い灯台をオレンジ色に染め上げるかもしれない、と期待した。ま、そんな奇跡は起きなかった。時間は、午後の三時過ぎだったと思うが、空は、雲に覆われ、ややうす暗くなっていた。防波堤の下では、サーファーたちが帰り支度をしていた。
さあ、引き上げよう。ナビに宿泊するホテル名を読み込ませた。今日は、朝の三時前から動き始めて、車の運転と写真撮影、ほぼ十二時間活動したわけだ。われながら、この歳で、よくやれたと思った。というか、さほど疲れていない。昼の小一時間の仮眠がきいたなと思った。ただ、下っ腹が張っていて、やや不快。ホテルの温水便座で排便したかった。
相馬駅近くのホテルまでは、すぐだった。どこをどう走ったのか、途中でセブンに寄って食料も調達したのだが、ほぼその一切の記憶が飛んでいる。ホテルの受付には、黒いスーツを着た若い女性が二人いた。いや、まだ女の子といった方がいいかもしれない。コロナ関連の書面に署名して、説明を受けた。その説明が、たどたどしくて、客慣れしていない。ちょっと前までは、地元の高校生だったのだろう。前金で一泊¥4147だった。そうそう、それから最後に<地域クーポン券>¥1000分を受け取った。
エレベーターに乗って、部屋へ行った。やや狭いが、こぎれいな感じで、備品などはきちんとそろっている。念のため、冷蔵庫の中に手を入れてみると、ややヒヤッとした。大丈夫だ、冷えている。おそらく、その次には、ユニットバスの中に入って、温水便座で排便したのだと思う。どのくらい出たのか、確認はしなかったが、下っ腹がすっきりしたような覚えがある。
その後、ホテルのパジャマに着替えて、荷物整理。と、空気清浄機が床と細長い机の上に、それぞれ一台ずつあった。さらに、その机の上には、コーヒードリップのような器具もあったが、ひと目見た感じでは、使い方が理解できなかった。あとで見てみよう。それよりも、先にメシだな。保冷バックで冷やしておいた、ノンアルビールの栓を指で開け、セブンで買ったハンバーグ弁当を食べた。あたためてもらったので、まだ少し暖かくて、まずくはなかった。そのあとは、<昼寝 5時>、とメモにあった。
<7時頃おきる 少し体力が回復 風呂・頭を洗う 日誌をつける モニターなど 九時すぎにはねるつもり>。ノートに記したメモである。比較的マメに書いている。ボールペンで文字を書く習慣がなくなって久しいが、灯台旅を始めて、日誌をつけるにあたり、メモ書きの必要に迫られたわけで、少し慣れてきたのだろう。何しろ、記憶力が弱っている。まったく思い出せないことが多々あるのだ。そんな時、メモ書きを読むと、思い出せることもある。
ところで、少しつけ加えよう。旅先、それも初日にホテルの風呂場で頭を洗う、などとは、自分の常識にはないことだった。だが、何というか、融通が利かなくなったのだろう、火木土はジムの日で、その日は頭を洗う、という習慣が身に沁み込んでしまっているのだ。もっとも、一日おきの洗髪は、最近の習慣で、これは、自分の加齢臭にうんざりして、決めたことだ。頭をかいた指先を鼻に持っていくと、独特の臭いがする。この臭い、加齢臭は、洗髪を二日あけると、強烈になる。一日おきが限界だ。世間や他人が、問題なのではない。年寄りくさい臭いのする、自分が嫌なのだ。
鵜ノ尾埼灯台撮影3~ホテル
悪路、というか、人間の歩行の限界を試しているかような場所から、やっとのことで、滑りも転びもせず、砂浜にたどり着いた。陽が少し西に傾いている。海の中にいるサーファーの数も減っていた。週三日のジム通いで、年寄りなりに、足腰は鍛えているつもりだったが、その根拠のない自信はもろくも崩れていた。膝がガクガクなのだ。
だが、もうひと頑張りだ。いや頑張ろうとすら思わなかった。あたりまえのように、また、<鵜ノ尾岬灯台>へ向かった。漁港を出て、先ほど浜辺から見た短いトンネルをくぐった。今日二回目の灯台下の駐車場だ。車がけっこう止まっている。たしか、カメラ二台だけ持って岬を登り始めたのだと思う。いや、忘れた。カメラバックに三脚は取りつけず、中に飲料水だけを入れて背負っていたのかもしれない。
残念なことに、雲が出てきた。午前中と同じ道順で、灯台を撮りながら、岬を巡った。家族連れに何組か遭遇した。印象に残っているのは、<へりおす>の碑から、とって返した時、向こうから来た、老年夫婦と会釈して、二言三言、言葉を交わしたことだ。はじめ、十メートルくらい先に、旦那が見えた。勘違いかも知れないが、こちらに何度も、会釈しているように見えた。そのあと互いに近づいて、すれ違いざまに、<こんにちは>と言葉を交わした。腰の低い、純朴で穏やかな旦那だった。
さらに、旦那の少し後ろの方にいた奥さんが、<どちらから来たんですか>と話しかけてきた。<埼玉からです><そうですか>。気弱な旦那を支えている、気丈な農家の母ちゃん、という感じがした。自分としては珍しく<今日は、風もなくていい天気ですね>とお愛想を言った。
老夫婦が柵沿いに並んで、岬の灯台を見ている。立ち去りながら、その姿を背中で感じた。よい人たちに出会ったと仄かに思った。
一度、正確には二度、灯台の周りを巡っているので、今回で三度目だ。撮影ポイントは、おおよそわかっていたから、あせることもなく、余裕をもって撮り歩いた。午前の撮影と違い、雲が出てきて、明かりの具合がよくない。そのうち、これ以上撮っても無駄、と判断した。そのあとは、少し観光気分になって、写真撮影を楽しんだ。
引き上げ際、岬の中ほどの山道で立ち止まった。眼下の<松川浦>がオレンジ色に染まりかけている。静かな湖面に、規則正しく細い棒のようなものが並んでいる。あとで知ったが、海苔の養殖をしているようだ。ただ、その中の浮島には、枝だけになった樹木たちのシルエットが見えた。<大津波>に襲われ、生き残った樹木たちだと思った。さらに、ほかにも、やや大きめな浮島がいくつかある。じいっと見た。コンクリで周囲を修繕してある。景観的にどうのこうの、というよりは、なにか無残な感じがした。と同時に、郷土の美しい景観を愛し、懸命に保存しようとしている人間の心を感じた。
さらに、岬を下りたあたり、断崖の窪みに、比較的新しいお地蔵さんたちが、いっぱい並んでいた。案内板を斜め読みしたが、頭に入ってこなかった。幸い写真に撮っておいたので、帰宅後に読むことができた。一度目は戦争、二度目は<大震災>で荒廃してしまった地蔵尊を、その都度、地元の有志が再興してきたようだ。最果ての岬に、ひっそりたたずむ石仏たちには、人間の祈りが込められていたのだ。
静かで、美しい夕景だった。最後に、もう一度、漁港に入って、防波堤から、岬に立つ灯台を狙った。もしかしたら、雲間からの夕陽が、白い灯台をオレンジ色に染め上げるかもしれない、と期待した。ま、そんな奇跡は起きなかった。時間は、午後の三時過ぎだったと思うが、空は、雲に覆われ、ややうす暗くなっていた。防波堤の下では、サーファーたちが帰り支度をしていた。
さあ、引き上げよう。ナビに宿泊するホテル名を読み込ませた。今日は、朝の三時前から動き始めて、車の運転と写真撮影、ほぼ十二時間活動したわけだ。われながら、この歳で、よくやれたと思った。というか、さほど疲れていない。昼の小一時間の仮眠がきいたなと思った。ただ、下っ腹が張っていて、やや不快。ホテルの温水便座で排便したかった。
相馬駅近くのホテルまでは、すぐだった。どこをどう走ったのか、途中でセブンに寄って食料も調達したのだが、ほぼその一切の記憶が飛んでいる。ホテルの受付には、黒いスーツを着た若い女性が二人いた。いや、まだ女の子といった方がいいかもしれない。コロナ関連の書面に署名して、説明を受けた。その説明が、たどたどしくて、客慣れしていない。ちょっと前までは、地元の高校生だったのだろう。前金で一泊¥4147だった。そうそう、それから最後に<地域クーポン券>¥1000分を受け取った。
エレベーターに乗って、部屋へ行った。やや狭いが、こぎれいな感じで、備品などはきちんとそろっている。念のため、冷蔵庫の中に手を入れてみると、ややヒヤッとした。大丈夫だ、冷えている。おそらく、その次には、ユニットバスの中に入って、温水便座で排便したのだと思う。どのくらい出たのか、確認はしなかったが、下っ腹がすっきりしたような覚えがある。
その後、ホテルのパジャマに着替えて、荷物整理。と、空気清浄機が床と細長い机の上に、それぞれ一台ずつあった。さらに、その机の上には、コーヒードリップのような器具もあったが、ひと目見た感じでは、使い方が理解できなかった。あとで見てみよう。それよりも、先にメシだな。保冷バックで冷やしておいた、ノンアルビールの栓を指で開け、セブンで買ったハンバーグ弁当を食べた。あたためてもらったので、まだ少し暖かくて、まずくはなかった。そのあとは、<昼寝 5時>、とメモにあった。
<7時頃おきる 少し体力が回復 風呂・頭を洗う 日誌をつける モニターなど 九時すぎにはねるつもり>。ノートに記したメモである。比較的マメに書いている。ボールペンで文字を書く習慣がなくなって久しいが、灯台旅を始めて、日誌をつけるにあたり、メモ書きの必要に迫られたわけで、少し慣れてきたのだろう。何しろ、記憶力が弱っている。まったく思い出せないことが多々あるのだ。そんな時、メモ書きを読むと、思い出せることもある。
ところで、少しつけ加えよう。旅先、それも初日にホテルの風呂場で頭を洗う、などとは、自分の常識にはないことだった。だが、何というか、融通が利かなくなったのだろう、火木土はジムの日で、その日は頭を洗う、という習慣が身に沁み込んでしまっているのだ。もっとも、一日おきの洗髪は、最近の習慣で、これは、自分の加齢臭にうんざりして、決めたことだ。頭をかいた指先を鼻に持っていくと、独特の臭いがする。この臭い、加齢臭は、洗髪を二日あけると、強烈になる。一日おきが限界だ。世間や他人が、問題なのではない。年寄りくさい臭いのする、自分が嫌なのだ。
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