此岸からの風景
<日本灯台紀行 旅日誌>オヤジの灯台巡り一人旅 長~い呟きです
2023
08/09
Wed.
07:38:25
<日本灯台紀行 旅日誌>2021年度版
Category【灯台紀行 紀伊半島編】

<日本灯台紀行 旅日誌>紀伊半島編
#13 七日目(2) 2021年3月26(金)
麦埼灯台撮影
七日目の二か所目の撮影地は、大王埼灯台から南西方向へ20キロほど下った麦埼灯台だ。地理的には、伊勢志摩地方の最南端である。
<10:30 移動 11時 麦埼灯台着>。ナビに、麦埼灯台を指示してから、そのあと、どこをどう走ったのか、ほとんど思い出せない。しっかりとしたイメージが出てくるのは、民家の立ち並ぶ細い道を、うねうねと走った先にあった、日当たりのいい漁港だ。その(片田)漁港は、幾本もの防波堤に守られていて、浜沿いに、係船岸壁がずっと続いている。広々しているわりには、漁船の数が少ない。人の姿も見えない。静かな場所だった。
麦埼灯台は、観光灯台ではないので、付近に駐車場はない。道が狭くて、路駐もできない。これは、事前の下調べでわかっていた。とはいえ、車はどこかに止めなければならない。グーグルマップで調べていると、灯台のかなり手前に漁港があり、その係船岸壁の一番端に駐車できそうだ。というか、ここしかないのだ。だが、私有地だろう、無断駐車が可能なのか?とやや不安であった。
漁港の入り口には、関係者立ち入り禁止の看板もなく、ロープも張ってない。自由に出入りできそうだ。これ幸いと、ゆるゆると岸壁に入り込み、行き止まりまで行った。目の前には海に突き出た防波堤があり、背後の防潮堤には、都合のいいことに、うえの道に上がる階段がついていた。大きなワゴン車も一、二台止まっていて、あきらかに釣り人の車だ。ここなら、駐車しても、とがめられることはないだろう。
少しやる気になっていた。身体が、いわゆる、撮影モードに入っている。防潮提の階段を登り、道に上がった。灯台など、どこにも見えない。だが、カンを働かせて、灯台があるであろう方向へと、防潮堤沿いの道を歩き出した。しかし、じきに道は行き止まり。さてと、見回すと、左手の方に、ゴミの集積所があり、民家が見える。近づいてみると、<麦埼灯台>の案内板があった。
案内板の矢印に従って、進んだ。すぐに分かれ道になるが、そこにも案内板があり、矢印に従って、右に曲がった。民家が点在する林の中の細い道だ。少し坂になっている。あれ~と思って、進んでいくと、なんとなく、行き止まりになってしまった。
間違ったかな。今来た道を戻った。と、庭の手入れをしている女性がいたので、道をたずねた。教えてくれたのは、さらに林の中に入っていく、道なき道だ。半信半疑で、教えられた方向へ進む。軽自動車一台がやっと通れるほどの坂道だ。両脇には背の高い竹が鬱蒼としていたが、木洩れ日がいい感じだ。そんなことよりも、この先に本当に灯台があるのかと少し疑った。だが、方向的には間違いないとも思った。
さして長い坂でもなかった。登りきったところは、当然ながら、少し高い位置だ。正面少し下、竹林に挟まれた視界の真ん中に、白い灯台がちらっと見えた。その向こうには、水平線があった。やっと見つけた、というほどの感動ではない。だが、文字通り、目の前がパッと開けた感じがして、気持ちが明るくなった。
どれどれどれ、灯台に近づいていった。お決まりのように、灯台の近くには、小さな公衆トイレがあり、剥げかけた案内板があった。(文飾的にはこの方がいいが、これは間違いだ。最近設置した感じの立派な案内板だった。)とにかく、まずもって、裏?からは、まったく写真にならなかった。中型灯台だが、地上部に四角い建物が付属していて、灯台の底部を隠している。ほかにも、電信柱が横にあり、その電線が、灯台の胴体にかかっている。見た目、なんとなく、雑然としている。
裏がだめなら正面だ。岬の突端部、海側に回ってみた。海側には、小さな東屋があり、休憩できそうだ。もっとも、休憩している場合でもない。向き直って、灯台に正対した。だが、これまた、お決まりのように、引きがなく、灯台の全景は撮れない。さてと、見回すと、海女の姿をかたどった白い看板のようなものが目についた。なるほど、記念撮影用だ。で、海女さんをパチリと一枚撮ったのか?いま撮影ラッシュを見直すと、このちょっとあと、海を背景に、シナを作った、ややセクシーな海女さんの看板を一枚だけ撮っていた。よほど気分がよかったのだろう。
東屋を囲っている柵の下には、断崖沿いに、コンクリの小道があり、防潮堤に付帯している階段まで続いていた。ということは、下の海岸に下りられるということだ。階段に近づき、下を覗き見た。岩場になっている。下りないわけにはいかないだろう。とはいえ、写真的には、ほぼ無理だった。画面の下半分はコンクリの反り返った防潮提で、その上に、灯台がちょこんと見えるだけだ。これでは、完全に、防潮堤が主役だ。別に、防潮堤を撮りたいわけではないのだ。もっともこの場所は、観光で来た家族が、磯遊びするには最高の場所だろう。見渡す限り、穏やか海だった。
念のために、岩場づたいに、左手に回り込んでみた。灯台は死角になり、ほとんど何も見えない。ついでに、右手というか東側にも回り込んだ。岩場はさらに狭くなり、首が痛くなるほど見上げても、灯台は見えなかった。そのあと、また東屋まで戻って、気晴らしに、海女さんの看板を撮ったのだろう。そして、最後の望みとも言うべき、というのは、これまでに麦埼灯台の、まともな写真は一枚も撮れていないわけで、灯台の西側にある広場へ行った。
断崖沿いの、雑草の繁茂した細長い広場だった。柵沿いに、崩れかけたベンチが、いくつかあった。もろに陽が来ていて、眩しい。この広場は、灯台の斜め右後ろに位置しているものの、灯台が、わりとかっこよく見える。アングルとしては、こうだ。中央やや左寄りに灯台、右側には海があり、水平線が見える。ま、お決まりの構図だな。断崖沿いの柵とベンチを入れて、雑草で緑に染まっている手前の広場から垂直にパンする。明かり的には、やや斜光気味で、申し分ない。
だが、ここでも、例の<ジレンマ>に悩まされた。お馴染みの、灯台の垂直と、水平線の水平の両立だ。ま、今回は、岬と水平線との<ねじれ>関係がきついので、両立どころか、水平線を画面に取り込むことさえ、かなり難しい。つまりは、灯台が、画面の左寄りではなく、中央寄りになり、広場左側のなんということもない木立が、やけに目立ってしまう。
こうなれば、ベストポジションもヘチマもない。<ローラー作戦>開始だ。ほぼ一メートル間隔で、広場の周囲を撮り歩きした。あとは、例の<ジレンマ>から逃れるために、灯台だけをアップで撮ったりもした。しかし、これは、その場でモニターした時、一目で、モノにならないと思った。
時間にして、どうだろう、三、四十分集中して撮影していたのだろうか、<ローラー作戦>を終了して一息入れた。日差しがきついが、柵沿いのベンチに座って、今一度撮影画像のラッシュを見た。すべてが、箸にも棒にもかからない、と言う程ではなかった。少し安心した。
さてと、立ち上がった。目の前の海が広々している。キラキラしていてきれいだ。目を細めると、はるか彼方に、小さな島が二つあり、その右側に、灯台らしきものが見えた。先程、漁港の防潮堤沿いの道から見えた、海の中に浮かんでいた灯台だ。デジカメの望遠を利かせて、確かめた。岩礁に立つ深緑色のロケットのような形をした灯台だった。
カタチが、ごつくて、いかにも時代を感じる。なんであんなところ一基だけ立っているのか?と思いながら、デジカメで何枚も撮った。そのうちには、ロケット灯台の横を、小さな漁船が真一文字に疾走していく。三角の高波を次々と乗り越え、波しぶきをあげている。勇ましいというか、爽快だね。でも、あんなことは、俺にはできないな、と思った。
引きあげだ。その際、色とりどりのお花をつけて、広場一面に咲き乱れている雑草たちに、多少心が動いた。観光客が大勢来る広場だったら、雑草も生えないだろう。だが、ここには、ほとんど誰も来ない。雑草の繁茂がそれを証明している。そういえば、こんなにいい天気なのに、人の姿が全くない。虫や草や木、青空や太陽の息づかいが聞こえる。いや、これは比喩だ。それほど、静かだった。
東屋の下のコンクリの小道を歩いて、戻った。ダメもとで、というか記念写真のつもりで、見上げるような感じで、灯台を撮った。むろん、手前に、東屋や柵が入ってしまう。そればかりか、このとき、改めて気づいたのだが、幟をたてるような、かなり長い竿が立っていた。竿は先のほうで直角に曲げられていて、その曲げられた棒の先端は紐で、柵に固定されている。どのような用途で使用されているものか、その時も、今も正確にはわからない。ただ、写真的には、非常に邪魔だ。灯台の左横での存在感が強すぎる。人間の気配、漁民の雄々しい生活を直感したのかもしれない。
少し坂になった小道を登り、灯台を追い越した。公衆トイレの手前あたりだっただろうか、立ち止まって振り返った。もろ、逆光だ。視界が暗くなり、灯台はよく見えなかった。名残惜しい、とは思わなかった。その場を立ち去るときに、忘れ物はないかと振り返る、いつもの癖に近かった。忘れ物はない。向き直って、竹林の中の坂を下りた。木漏れ日というよりは、背後から陽が差し込んでいて、妙に明るかった。
竹林の坂を下りきって、少し視界が開けた。道をたずねた女性の姿を眼で探したが、ひとっ子一人いない。突き当りを左に曲がり、からっぽのゴミの集積所をチラッと見て、防潮堤沿いの道に出た。途中で止まって、海の中の緑色のロケット灯台を、またデジカメで撮った。構図的にも距離的にも、無理だとわかっていたが、写真にしたかった。未練だな。
さらに行くと、防波堤の先端に赤い灯台が見えた。ちょうど、車を駐車したあたりだ。出発するときは、前へ前へと、気持ちも体も急いていたのだろう、赤い防波堤灯台のことは、ほとんど目に入らなかった。だが、今は、気分的にはフラットになっていたし、そのうえ、いやおうなく目の前に見えるのだ。反射的に、カメラを向けた。
そのあとは、防潮堤の上を、撮り歩きしながら、自分の車へと向かっていった。防潮堤の下は浅瀬の岩場で、海の色がコバルトブルーだ。驚くほど透明で、瑞々しい。撮れないとわかっていても、カメラを向けないではいられなかった。
防潮堤の階段を下りた。そばに、白いワゴン車が何台か止まっていた。明らかに仕事車で、作業着を着た男たちが三、四人、防波堤の上に居る。何か話しながら、赤い灯台の方へ向かっていく。灯台の見回りだなと思った。
車に乗った。ナビに<安乗埼灯台>を指示して、出発した。広い岸壁をゆるゆる走って、漁港を後にした。いや、気まぐれだ。ユーターンして、少し戻った。中途半端な所に車を止め、カメラをもって外に出た。逆光の中、防波堤の赤い灯台が、何か言っている。いや、そんなことはない。だれかに促されて、そのハードな光景を撮っただけだ。撮っておかないと、あとで後悔するような気がしたのだ。
[edit]
2023
08/02
Wed.
06:04:28
<日本灯台紀行 旅日誌>2021年度版
Category【灯台紀行 紀伊半島編】

<日本灯台紀行 旅日誌>紀伊半島編
#12 七日目(1) 2021年3月26(金)
大王埼灯台撮影2
紀伊半島旅、七日目の朝は、近鉄志摩線の鵜方駅近くのビジネスホテルで目が覚めた。
<6時半起床 7時半出発 8時大王埼灯台>。おそらくは、旅も後半になり、疲れてきて、詳細なメモを書くのが嫌になったのだろう。したがって、今からは、思い出す、という精神的な労力が、多少必要となる。面倒ではあるが、ボケ防止のために、頭を使ってみよう。
近鉄志摩線の鵜方駅近くのビジネスホテルは、国道に面していた。大王埼灯台までは、この道をほぼ一直線に南下(正確に言えば南南東下)すればいい。かなりいい道で、走りやすかった。しかし、普通の市街地走行とほぼ変わらないので、面白みはない。書き残しておくことがあるとすれば、<甲賀>という地名のことだ。たしか、公園かなにかの名前になっていて、大きな案内板が目に付いた。<甲賀>といえば、条件反射的に<伊賀>だろう。<忍者>だね。
その忍者の里が、ええ~、この辺なのかと思った。しかしこれは、まったくの勘違いだったことが、先ほど調べてわかった。徳川家康の<伊賀越え>で有名な、甲賀衆は現在の滋賀県甲賀市付近が本拠地だったらしい。敵対関係にあったとされる<伊賀衆>は、その少し南の三重県の西部だ。それと、甲賀は<こうが>と発音するものとばかり思っていたが、<こうか>とも読み、この方が一般的らしい。したがって、眼にした案内板の甲賀の文字も<こうか>と読む。要するに、二重の勘違いをしていたことになる。ま、それにしても、子供の頃に夢中で読んだ、忍者漫画は面白かった。<伊賀の影丸>が最初で、そのあとの、白土三平の<サスケ>と<カムイ外伝>が特に好きだった。比較的幸せな時代だった。
ジジイに戻ろう。8時過ぎに大王崎の有料駐車場に着いたのだろう。たしか正面の小屋に料金を払いに行ったような気がする。愛想のいい爺が出てきたので、再駐車できるかと聞くと、領収書のような紙切れを渡され、それ見えるところに置いてくれと言われた、のかな?よくは思い出せないが、いい天気だったことは確かだ。
昨日の下見で、撮影ポイントは二か所だけだとわかっていた。一か所目の<八幡さん公園>に登った。もろ、逆光で写真にならない。とはいえ、いちおうは撮ってみた。またあとで来よう。あっさり公園から下りて、うす暗い急な遊歩道を上った。灯台の前を通り過ぎ、今度は、急な階段を下った。防潮堤沿いの崩れかかった旅館をちらっと見て、砂利浜に降り立った。ここが二か所目の撮影ポインドだ。明かりもほぼ順光、灯台に当たっている。砂利浜を歩き撮りしながら、灯台の立っている岬へと向かっていった。
狭い砂利浜で、背後には防潮堤がそびえたっている。さらに行くと、砂利浜はなくなり、かわりに、テトラポットが防潮堤の前にゴロゴロと寝そべっている。なるほどね、すぐ上には例の旅館があった。波しぶきをテトラが防御しているわけだ。この先は、行けないこともないが、じきに法面加工の断崖で行き止まりだ。
それに、岬のほぼ真下あたりに来ている。すでに灯台も見えない。引き上げようかな、と思ったが、浜の行き止まりに、羊羹のような形をした巨大なコンクリートがある。これは、明らかに、防潮堤を波しぶきから守っている代物だ。いわば、テトラのかわりに設置したのだろう。それにしても、中途半端な感じで、不自然さが際立っている。
なにかの衝動に駆られたようだ。テトラに足をかけ、羊羹コンクリートの上に登った。別にどうということもない。周りを見回した。海がきれいで、広々していて気持ちがいい。ただ、弧になった砂利浜の反対側の断崖が、無残に崩れていて、赤肌をさらしている。しかも規模が大きい。それに、長い間、放置されたままなのだろう。ま、復旧工事の法面加工も並大抵じゃない。予算がないんだな。
滑らないように、というのは、羊羹の上は時々波しぶきに襲われ、濡れていたからだが、慎重に巨大コンクリートの上から下りた。前を見ると、波打ち際に、テトラが一基、砂の中にほとんど埋まりかけている。これまた不自然な光景だと思った。ほとんどの仲間は、防潮堤際でごろごろしている。したがって、このテトラ君だけが猛烈な波しぶきに耐えきれず、波打ち際まで転がり落ちたのだろうか?いや、ひょっとすると、犠牲者はもっといて、砂の中にたくさん埋まっているのかもしれない。
とにかく、波打ち際に太い腿が一本、天に向かって突き出している。近づいてみると、コンクリの表面が風化していて、中の砂利が見えている。貝なども付着している。記念にと、いちおう、周りの風景も入れて写真を撮った。さらに、おもしろ半分でテトラ軍団に近づくと、最前線の兵士たちも、かなり風化している。のっぺりした、不愛想な灰色のコンクリが、いい塩梅にオブジェ化している。灯台と絡めて、撮れないものかと、少し真面目になってアングルを探った。だが、無理だった。背景の灯台が小さすぎる。それに、浜辺の風化したテトラポットなどは、よほどの思い入れがない限り、いくらなんでも、写真にはならないだろう。
砂利浜に足をとられながら、防潮堤の上に戻った。いまさっき下りてきた急な階段を見上げた。また<八幡さま公園>に戻って、灯台を撮ろう。例の崩れかかった旅館の横を通り過ぎた時、ガラスの引き戸越しに、中をチラッと覗き見た。誰もいなかったが、いい感じで日が差し込んでいる。日向ぼっこには最適だなと思った。
防潮堤が終わる所からは、急な階段だ。左手は海、絶景!右手は断崖で、石を積んだ壁で補強してある。この石の壁には、なぜか、ところどころに大きな暗渠があり、それがドクロの目と鼻のように見えて面白かった。それと、コンクリで塗り固めた壁よりも、趣があり、きれいに積みあげられた石たちには、どこか人間的な温かみがあった。職人の技が、人間の生活を守り、違和感なく、自然の風景の中に溶け込んでいるように思えた。
階段を登り切ったところには、桜の木が一本あって、白い花が咲いていた。少し手前で立ち止まって、記念に一枚だけ写真を撮った。この<記念に一枚>というのも、わけのわからない衝動のひとつで、やや<マーキング>に似ていないこともない。
そのあとは、灯台の敷地に入った。入場料を払い、灯台の正面に回ってみた。というのも、大王埼灯台の特徴として、正面、というか、海側から見た造形が独特なのだ。何本もの柱で支えられた回廊?が灯台の底部を構成している。それが、タコが八本の足で立っているように、自分には見えるのだ。ただ、惜しいかな、引きがない。自分のレンズでは、タコ足を含めた灯台の全景が、画面におさまり切れなかった。
灯台にも登ってみた。上からの眺めは最高だった。南側は、まさに大海原。西側には、<八幡さま公園>。展望スペースの全景が見えた。さらに、北側には、上半分に錆のでている電波塔があり、その背後には、思いのほか、人間の住居が密集していた。大海原とマッチ箱のような住居との対比が、なぜか小気味よかった。やはり、これもいわば<神の目>なのだろう。自分が、ちっぽけな住居で生活している、ちっぽけな人間だということを一瞬、忘れさせてくれる。
灯台内部の大きなレンズや、どてっぱらのガラス窓から見える外の景色などを、冷やかし半分に撮りながら、極端に急で狭いらせん階段を降りた。そのあとすぐに灯台の敷地を出た。太陽がだいぶあがってきていて、薄暗い遊歩道の、ところどころに、日が差し込んでいる。再度<八幡さん公園>に上がった。岬に立つ大王埼灯台を横から狙った。天気もいいし、ちょうど灯台の右半分に明かりが当たっている。今が勝負時だと思って、気合が入った。
断崖の柵際を行ったり来たりしながら、右側の水平線と灯台の垂直が確保できるベストポジションを探した。だが、そもそものところ、水平線と、灯台の立っている岬は、<ねじれ>の関係になっている。水平線の水平を確保すれば、灯台が傾くし、灯台の垂直を確保しようとすれば、水平線が傾く。
とはいえ、このジレンマは、おなじみのものだった。もっとやさしい条件、たとえば、灯台だけを撮るときにも、水平線だけを撮るときにも、このジレンマは出現してくるのだ。つまり、ほとんどの場合、自分の立ち位置と、地上の事物が、正対していることはない。<ねじれ>の関係だ。ならば、そういう時にはどうするか、カメラを少し傾けて、画面内での灯台の垂直とか水平線の水平を確保するのだ。
ただし、こうして撮った写真は、画面内のほかの事物に<不自然さ>を強いる。ので、最終的には、画像編集ソフトを使って、画面内にあるすべて事物の、水平、垂直を補正せざるを得なくなる。ようするに、その時自分の見たものが<本物>だとすれば、シャッターを押した瞬間から、ウソがはじまり、さらには、補正作業で、ウソの上塗りをしていることになる。
しかしながら、こうも考えられる。そもそものところ、果たして、自分がその時見たものが<本物>だったのか?そう思っているだけなのではないか?<知覚>そのものを懐疑すると、真偽の境は曖昧になる。実際には存在しえない、写真の中の<風景>を何度も見ていると、それが<本物>に思えてくる。そのうちには、カメラやソフトでウソにウソを重ねた風景が<本物>になってしまう。実視から幻視を錬金する行為とは、ある意味では<イカサマ>だろう。だが、<空中に花挿す行為>だとロマチックに語ることもできるのだ。
大王埼灯台が見える断崖の柵際で、行ったり来たりしながら写真を撮っていた。そのうちには、どこがベストポジションなのか、よくわからなくなった。だが、<ローラー作戦>よろしく、ほぼ一メートル間隔で撮っているのだから、なんとかなるだろう。それよりも、柵際に群れ咲いている<ムラサキダイコン>に、やや感傷的になっていた。お花たちをこの風景の中に取り込むことができないだろうか。何枚も何枚も、同じような構図で撮った。岬も灯台も断崖も、海も空も太陽も、そして風も光も、全ての物が、紫色の小さなお花たちの脇役にまわった。
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