此岸からの風景
<日本灯台紀行 旅日誌>オヤジの灯台巡り一人旅 長~い呟きです
2023
11/27
Mon.
09:19:43
<日本灯台紀行 旅日誌>2021年度版
Category【灯台紀行 男鹿半島編】

<日本灯台紀行 旅日誌>男鹿半島編
#5 一日目(5) 2021年7月14日
最果ての温泉旅館
ほぼ午後七時半に宿に着いた。受付で、愛想のいい女将からの挨拶を受け、エレベーターに乗った。部屋に入ると、座卓の上に夕食が並べられていた。シャワーでも浴びたい気分だったが、腹が減っている。でも一応、ユニットバスを覗いてみた。先ほど、駆除し損ねた<ヤスデ>が気になっていたのだ。
そうよ、チェックイン時に、ユニットバスを確認した際、桶に隠れていた<ヤスデ>に出っくわしたのだ。え~~~~~!と思った瞬間、奴は、排水溝の中に逃げ込んだ。どうしようもないではないか。ぴたりとドアをしめた。這い出る隙間なないよな、奴を閉じ込め、ユニットバスには絶対入るまいと思った。
<ヤスデ>の姿は見えなかった。いや、気持ち悪いので、よくは確認しなかった。ところがだ、夕食の席に着く際、脇にあったポットをどかしたら、黒い影が急に動き出した。畳の上を、たくさんの足が大慌てで動いている。ややパニックになったが、すぐ冷静になり、駆除するものはないかと、辺りを見回した。新聞紙か雑誌があれば最高だが、そんなものはどこにもない。仕方ない、座卓の上にあった茶色い案内冊子を手に取り、狙いを定めた。うまく仕留めた。だが、もうこれ以上書く気がしない。殺生はしたくはなかったのだ。
気持ちを取り直して、夕食の席に着いた。食べるものが山ほどある。ほとんどが魚料理で、量も多い。とくに刺身はうまかった。場所柄なのだろう。完食して、満腹だ。さてと、寝る前に温泉だな。ポシェットとカメラを、備え付けの金庫に入れた。金庫の鍵は、冷蔵庫の上のカップ入れの後ろに隠した。まずもって、小心なのだ。
バスタオルとペラペラの手ぬぐいをもって、エレベーターで二階に下りた。温泉の入り口には、青い暖簾がかかっている。<男>の文字が白抜きしてある。温泉には誰もいなかった。まずまず広くてきれいだ。湯船では、手足を伸ばして、ゆっくりくつろいだ。食事と温泉は、まずまずだが、部屋が汚すぎる。一泊¥11500。値段的に、高いのか安いのか、判断に迷った。
部屋に戻った。座卓の上に、食い散らかした夕食が、置きっぱなしだ。このまま、というわけにもいかないだろう。受付に内線電話をかけると、例の愛想のいい女将が出て、下げに伺いますとのこと。少したって、廊下で音が聞こえた。ドアを開けると、紺の作務のような服装の、白いマスクをした<ゆりやん>のような若い女性がいた。
仲居さんというか、旅館の従業員は、婆さんばかりだと思っていたので、やや意外だった。彼女は、アルバイトなのか、ぎこちない感じで、控え目だ。ふと思いついて、財布から、千円札を一枚取り出し、彼女に渡した。別に下心があったわけではない。ある程度の旅館に泊まったら、仲居さんへの心付けは、マナーだろう。昭和の時代には、それが当たり前だった。彼女は遠慮したが、出したものを引っ込めるわけにもいかず、やや強引に受け取らせた。
今の時代でも、仲居さんに心付けをするのがマナーなのか、よくわからないので、ネットで調べた。やはり、<心付け>の習慣は、いまだに活きているようで、とくに、何か特別なことをしてもらったら、感謝の意味で渡した方がいいらしい。ただし、財布から現金をだして、そのまま渡すのはNG。なにかに包んで渡すのが礼儀らしい。急なときには、テッシュでもいい。なるほど、そこまでは気が回らなかった。ま、その点は、勘弁してもらおう。
<ゆりやん>は食器類を廊下に出し、ふり返って、丁重に、おやすみなさいといって、部屋から出て行った。マスクをしているので、器量のよしあしは、しかとは判断できない。だが、色は白いような気がした。秋田美人、という言葉が思い浮かんだ。雪国で、陽に当たることが少ないので、色白なのだという。一見もっともらしい話だが、本当なのか?
ちょっと調べてみると、秋田県は日照時間も少ないらしいので多少蓋然性があるようだ。あとは、ウソかホントか、大昔、ロシアやヨーロッパから渡ってきて人達の、白人しかもっていないウイルスの遺伝子が、十人に一人の割合で残っているからだ、という説もある。そのほか、温泉とか食べ物とか、きりもない話だ。
とはいえ、日本三大美人(京美人、秋田美人、越後美人)という俗説の中に、雪国が二つも入っている。そういえば、<雪女>も美人の妖怪だ。雪と美人は、なにか関わりがあるのかもしれない。思えば、受付の女将も美人だった。自分の都合の良いことだけが、脳裏に浮かんできて、勝手に思い込んでいるだけだ。なかば迷信のような、俗説を信じてはいけない。
座卓の横の布団に寝転がった。布団は、温泉に行く前に自分で敷いておいた。横になると、クッションがよくないので、押し入れからマットレスをもう一枚出して二枚重ねにした。枕も、もう一個出して、二つに重ねた。部屋は汚かったが、敷布や布団カバーは、パリッと糊がきいていて、気持ちよかった。一瞬、<ヤスデ>がまだどこかにいるような気もしたが、考えないことにした。
蒲団の上に座りなおして、手帳に、日誌を走り書きした。そのあと、のどが渇いたので、飲み物を買いに、二階に下りた。猛暑での撮影と温泉とで、脱水気味なのかもしれない、などと思った。薄暗い館内に、人の気配はなく、なんとなくかび臭い。自販機の前に立った。ビールはあるが、ノンアルビールはない。コーラを買って、戻った。
寝る前に、歯磨きだ。歯ブラシは持参している。歯磨き粉は、洗面台に置いてあった、アメニティーの白い小指ほどのチューブを使った。その際、破った紙片を捨てようと、下にあった、ゴミ箱を見た。普通、ゴミ箱には内側にレジ袋のようなものがぶせてある。掃除する時に手間がかからず、ゴミ箱も汚れないからだ。そういえば、小さな鏡台の横にあったゴミ箱も、いわば<裸>だった。なんとなく、汚らしい感じがした。
歯を磨きながら、洗面所周りを見た。設備が古いのは致し方ない。だが、掃除が行き届いていない。いや、汚い。それに、壁紙が茶系のストライプ柄、床もこげ茶色なのに、洗面器の色がきれいなピンク色だ。そうだ、便器もピンクだった。なぜ、一般的な白でなくピンクを取り付けたのか、理解に苦しむ。
そう、最高にシュールだったのは、トイレだ。一応、温水便座だから、自分にとっての最低ラインはクリアしている。だが、使用中に、辺りを見回すと、床、天井、壁が、それぞれ、まったく異なった材質のフローリングや壁紙で内装されていて、色合いにも統一感がない。これあきらかに、その都度、劣化した部分を、一か所ずつ交換修繕したからだろう。むろん、その中に、ピンクの便器も入るわけだ。
建物自体は、おそらく、1970年前後に建てられたものだと思う。高度成長時代になり、庶民の団体旅行が流行り出した時期だ。この最果ての<男鹿半島>も、<なまはげ>を売り物にして、<ディスカバージャパン>の波に乗ったのだろう。
とすれば、すでに築五十年以上たっている建物だ。部屋が古くて汚いのは値段相応、ということで、客も我慢する。だが、トイレ、風呂、洗面所など、水回り系の不備にはクレームをつける。旅館側としても、最小限の修繕はせざるを得ない。一気に修理すると修理代がかさむから、不備なところだけを修理する。いきおい、ちぐはぐな感じになる。それが、トイレという狭い空間の中では、ことさら際立ったのだろう。
それにしても、このデタラメな内装は、人間の美的観念を大きく逸脱している。意図してデザインできるものではない。と考えると、居心地の悪かったトイレ空間が、なにやら<シュール>な感じがしてきて、じっと座っていることが、それほど苦痛ではなくなった。生理的な嫌悪感ですら、ある程度は、知性で相殺できる。哲学的知見の実証例のような気がした。
[edit]
2023
11/20
Mon.
09:09:15
<日本灯台紀行 旅日誌>2021年度版
Category【灯台紀行 男鹿半島編】

<日本灯台紀行 旅日誌>男鹿半島編
#4 一日目(4) 2021年7月14日
入道埼灯台撮影1
男鹿半島の先端、入道埼灯台に着いたのは午後の三時半頃だった。快晴で、空は真っ青だ。陽は少し傾きかけていたが、真夏の太陽が、ギラギラしていた。広い駐車場には、前を走っていたキャンピングカーのほか、二、三台の車が止まっているだけだ。それと、横一列に、五、六軒並んでいる土産物屋は、すでにシャッターを下ろしていた。閑散としている。だが、さびれた感じはしない。広々していて、気持ちのいいところだ。
灯台の周辺は、芝生広場になっていて、緑が鮮やかだった。正面には、海があり、少し上に、まともに見られないほど眩しい太陽があった。車から出て、さっそく磁石で方位を確認した。灯台は、やや北西方向にあり、夕陽と絡めて撮るのは難しいかもしれない。つまり、灯台と夕陽の間には、かなりの距離があり、自分のカメラの画角では、両者を一枚の写真におさめることはできそうにない。ま、これは、予期していたことだ。ネットには、そうした、夕陽と絡んだ入道埼灯台の写真は、ほぼ一枚もなかった。これは、灯台と太陽の位置関係からして、物理的に無理なのだろう。
駐車場と芝生広場の間には道路があった。といっても、通る車はほとんどない。左右を気にせず道を渡り、広場に入った。芝生だと思った緑のじゅうたんは、少し背の高い牧草のような草(芝草)で、ところどころにアカツメグサが群生している。白黒の灯台との距離は、そうだな、70~80mくらいかな?思ったほど巨大ではない。
左側には資料室のような平屋の建物が立っている。右側にも、何とも形容しがたいが、骨だけになった雨傘を逆さに立てたような、無線アンテナ(中波無線標識か?)がある。さらにその横に、灯台よりも大きなレーダー塔(無線方位信号所)が立っている。景観という観点に立てば、邪魔といえば邪魔だな。だが今日日、これらの鉄の構造物は、灯台付近に、必ずといっていいほど併設されている設備で、致し方ない。
カメラ一台を首にかけ、撮り始めた。念のために、予備の電池を一個、黒いポシェットの中に放り込んだ。ためし撮りなので、すぐには、灯台の正面にはいかず、広場の中の遊歩道を歩きながら、五、六歩行っては、立ち止まり、灯台にカメラを向けた。遊歩道の先には、なにか黒っぽいモニュメントが立っている。広場の中にも、それよりは小さい物体が点在している。ま、これらは、眼前に広がる、緑のじゅうたんと灯台と空との、いわば全体的な布置の中では小さなもので、ほとんど気にならない。
遊歩道からそれて、草深い中を、海へ向かって少し行くと、断崖になっているようだ。用心して、三、四歩前で立ち止まる。臆病で、爺になっているので<断崖>を覗きこむようなことはしない。行き止まりだということを確認して、こんどは<断崖>沿いに、モニュメントの方へ行く。
ちなみに、広場に足を踏み入れた時から、灯台の全景は見なくなり、資料室の屋根越しとなる。しかも、灯台と水平線を一つ画面におさめるには、<断崖>に近づきすぎてもよくない。広場の真ん中あたりが、一番マシ、ということだ。
撮り歩きしながら、モニュメントに到着した。自分の背丈以上あり、黒い石の立派な構造物だった。回りに円形状の腰掛もあり、そばに、むろん、案内板もあった。だが、気持ちが急いていたので、案内板は見なかった。とういうのも、灯台周りの探索を早く済ませ、いったん宿に入って、再度、日没の一時間前くらいから、撮影したかったからだ。いわゆる<ゴールデンタイム>だ。
なんというか、瑣末なことばかりが気にかかる。例えば、今回の場合、宿の夕食は、七時からということになっている。部屋に持ってきてくれるそうだが、それにしても、チェックインが七時過ぎるのはまずいだろう。ちょうどこの日、日没は午後七時十分ころだ。夕食と日没の時間が重なっている。どっちか取れ、というなら、最初で最後の夕陽のきれいな男鹿半島に来ているんだ、日没の撮影を取る。ま、旅館の夕食も、楽しみではあるが、千載一遇、夕陽に染まる入道埼灯台を逃すわけにはいかないだろう。
とにかく、早く、灯台周りの探索を終えねばならない。いま居るモニュメントの位置は、灯台から50m位離れた断崖沿いだ。ということは、海に背を向けている。構図としては、灯台が真ん中にあり、その左側に、資料室の建物、雨傘の骨組み(無線標識)、巨大なレーダー塔が横並びしている。快晴だから、空は<青>。要するに、水平線が見えない分、奥行き感、遠近感がなく、平板な構図だ。
最近は、写真の奥行き感、遠近感にこだわっている。というのも、自分で撮った灯台写真を選別する際、そこに、水平線があるかないかで、写真の見え方が全然違うのだ。写真の中に水平線があると、単純に言って、開放感がある。灯台の垂直は視線を上下させ、海の水平線はそれを左右に動かす。さらには、焦点距離が伸ばされ無限大になる。左右上下、遠近の、この目の動きが、奥行き感、遠近感、さらには解放感といったことの身体的根拠なのかもしれない。
それはともかく、最近の撮影では、構図的、絵面的な<ベストポイント>に、さほどこだわらなくなってきた。灯台という構造物と付近の景観が、あるていど調和しているなら、ベスト、ベターは、事後の選別の際に決めればいい。むろん、これまで通り、撮影の際は、いちおう灯台の周りを360度撮り歩くが、やみくもに全方位的に撮りまくることはなくなった。つまり、灯台と水平線がひとつ画面におさまる場所を重点的に撮るようになった。構図や絵面の美しさよりも、写真の中にある遠近感や開放感の方が面白いと感じているわけだ。
したがって、海を背にしてしまうと、とたんに、撮影テンションが下がった。空の景色がよければ、まだましだが、<青>一色だ。とはいえ、灯台の裏側も見て回らないわけにはいかないだろう。断崖に沿って、撮り歩きを始めた。おそらく、一時間以上はたっている。猛暑だ。体力的には、もう限界に近かった。うんざりしたのを覚えている。
入道埼灯台撮影2
入道埼灯台は、地形的に280度くらいの展望=明弧があるらしい。つまり、海から見た場合、灯台の光が見える範囲が広い。陸地から見た場合は、要するに、ぐるっと海が見わたせるわけだ。したがって、西側だけでなく、北側の展望もいい。目を細めると、はるか遠くに、細長い陸地が見え、そこに、巨大風車が等間隔に並んでいる。それがどのへんなのか、頭の中で考えた。能代あたりだろうか?ま、いい。
北側からの、灯台はといえば、こんもりした林にさえぎられて、上半分が見えるだけだ。まるっきり写真にならない。林に沿って、遊歩道のような道がある。このままいけば、灯台の正面に出られるだろう。と、断崖の下に遊覧船が止まっているのが見えた。そばに看板もある。<遊覧透視船>。なるほど、海がきれいだから、船底から海底を覗くような仕掛けになっているのかもしれない。ただし、<欠航中>。
断崖に近寄って、下を覗きこんだ。渡船場があり、その先端に遊覧船が係留されている。手前には、大きな建物があり、オレンジ色の屋根に<遊覧船待合所>と書いてある。炎天下の中、ひとっ子一人いない。船も看板も建物も、ふるびて時代がかっている。さびれた観光地だ。だが、ここからの景色が絶景であり、海の色が驚くほどきれいであることに、間違いはない。
こんもりとした樹木に沿って歩いた。そこが唯一日陰になっている。すぐに、灯台の正面側、つまり、駐車場の北側にでた。右を向くと、広めの遊歩道の先に、灯台資料館が見えた。トイレがすぐそばにあったので、用を足した。
さてと、灯台は資料館の右側にある。だが、距離が近すぎる。それに、周辺に巨大なレーダー塔など、いろいろごちゃごちゃしていて、まるっきり写真にならない。とはいえ、一応、灯台を見に行った。
資料館の受付は閉まっていた。灯台内部に入れるのは、午後四時までらしい。もっとも、暑さでぐったりしていたので、登るつもりもなかったが。灯台周りにも、いろいろな案内板があった。だが、目を通す気力もなく、とにもかくにも、灯台の入口の前まで行った。
ここまでは、比較的遠目から見ていたので、灯台のその巨大さに、ちょっとびっくりした。見上げると、ぶっとい白黒の胴体の先、つまり灯台の頭部は、死角になってよく見えない。したがって、いわゆる<灯台>のフォルムではない。むろん、写真も撮らなかった。とはいえ、あした体調を整えて登ってみようと思った。いや、ここまで来たんだ、登るべきだと思った。
灯台に背を向け、駐車場沿いに歩いていくと、シルバーの小さな車がポツンと止まっているのが見えた。自分のレンタカーだ。ふと、気まぐれを起こし、また、広場に踏みこんだ。灯台に正対した。同じ構図だが、さっき来た時とは、明かりの具合が違う。念のためだ。まだ、気力、体力に余力が残っていたのだろう。
車に戻った。午後五時少し前だったと思う。宿までは、十分足らずだ。チェックインだけ済ませ、夕方の撮影のために、すぐに戻ってくる、という予定を立てた。遅くとも、午後六時過ぎには撮影を再開できるだろう。一息入れて、駐車場を出た。意外に疲れていない。新幹線で来たからな、と思った。高速道路を何百キロも運転してきたのではない。疲労度が全然違うのだ。
<男鹿温泉郷>に入って、突き当りを右に行くと、十階建てくらいの大きな旅館がいくつもある。その一角に、予約した旅館があった。外見はそんなに悪くない。それに、受付の女性が、おもいのほか愛想がよくて、ま、美人だった。ところが、エレベーターに乗って、部屋に入ると、とことん老朽化している。畳こそ、すり切れていないが、壁はシミだらけ、縁がめくれている。さらに洗面所も、風呂も、かなり汚い。二泊だから、我慢だな。それに今は急いでいる。部屋の汚さにこだわっている場合ではない。
すぐに下に下りて、受付の女性に、戻ってくるのが午後七時半過ぎになることを伝えた。部屋に食事を運んでおいてくれるとのこと。これで安心して、出かけられる。ビジネスライクだが、それにしても、愛想がいい。
予定通り、午後の六時過ぎに、入道埼灯台に戻った。黄色っぽくなった太陽は、水平線の三十センチくらい上の辺りまで下がっていた。だが、依然として、まぶしくて、まともには見られない。日没は午後七時過ぎだ。
遊歩道の入口から、芝草広場に足を踏み入れた。すぐに道からそれて、草深い中に入った。灯台と水平線が一つ画面に入る場所を、カメラで確認しながら、ぶらぶら撮り歩きした。断崖に近づきすぎても、よくない。灯台が見切れてしまうのだ。流石に、暑さはおさまってきて、辺りが、なんとなくオレンジ色っぽい。
芝草広場には、アカツメクサのほか、名前の知らない白い花なども咲いている。お花たちを踏まないように歩いた。だが、ま、ここは勘弁してもらう、おそらく踏んづけているだろう。
さてと、太陽がかなり下がってきた。今や水平線のほんの少し上にある。その夕陽と灯台とをひとつ画面に収めたいのだが、両者に距離がありすぎて、構図的なバランスが悪い。ま、それでも、道路際の広場への入口辺りがベストだろう。三脚を車に取りに戻った。その際、ふっと辺りを見回すと、なんとなく人影が増えたような気がした。入道埼は、夕陽の名所だから、観光客たちが、日没の時間に集まってきているのだ。
沈む夕陽と灯台を一つ画面入れる。入道埼灯台の、そんな写真は見たことがない。要するに、地理的関係で無理なのだ。だがそうでもないぞ。道路際に並んでいる木の柵沿いに三脚を立てた。そばに、若い女の子が二人、スマホを夕陽に向けている。
夕陽と灯台をひとつ画面に収めることはできる。ただし、夕陽は左端、灯台は右端。構図的には、はなはだ心もとない。とはいえ、ちょっと真剣になって撮った。まさに<ゴールデンアワー>だった。刻一刻と、太陽が水平線に近づいていく。空も海も広場も灯台も、ますますオレンジ色に染め上げられていく。周辺にいる誰もが、スマホやカメラを夕陽に向けていた。妙に静かだった。
夕陽が水平線に到着した。周囲が、少しざわついたような気もする。自分も、灯台をそっちのけにして、その光景を撮った。黄色の丸は、水平線にかかると、あっという間に半円になり、姿を消した。その間五分くらいだろうか?とたんに、神々しい雰囲気は霧散して、ざわざわしはじめた。広場の中、断崖やモミュメント付近にいた見物客たちが戻ってきた。午後の七時十五分頃だった。
この後の<ブルーアワー>は、明日撮ることにして、自分も車に戻った。駐車場の車やバイクは、あっという間に、蜘蛛の子を散らすように引き上げていった。あとには、自分の車と、例のキャンピングカーしか止まっていない。あたりは薄暗くなっていた。キャンピングカーは、今晩ここで車中泊するのだろう。
水平線に沈む夕日は、たしかに美しいし、希少価値がある。ただし、今回は、さほど感動しなかった。写真としても、記念写真の域を出ていない。<日没>は、本当に美しいのか?べつに、それほどでもないよな。いつもの天邪鬼だ。宿へ向かった。
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2023
11/14
Tue.
07:08:43
<日本灯台紀行 旅日誌>2021年度版
Category【灯台紀行 男鹿半島編】

<日本灯台紀行 旅日誌>男鹿半島編
#3 一日目(3) 2021年7月14日
移動2
仙台駅では数人降り、数人乗ってきた。次の停車駅の盛岡駅でも、同じような感じだった。と、アナウンスが耳に入ってきた。車両を切り離し、盛岡駅からは、進行方向が逆になるらしい。どういうことなのか?自分が乗った<こまち11号>は実体的には、<はやぶさ11号>と<こまち11号>が連結されたもので、<はやぶさ>の方は、いわゆる東北新幹線で、新青森まで行く。一方<こまち>の方は、盛岡で切り離されて、在来線を走って、秋田まで行く、というわけだ。
と、ここからはいま調べたことだが、本来、新幹線と在来線とでは、線路の幅が違う。これは、たしか、小学生の頃に教わったことがある。となると、新幹線である<こまち>は、盛岡から秋田までの区間、在来線を使うことはできないのではないか?これは、半分は正解で、半分は間違い。在来線の田沢湖線(盛岡~大曲)と奥羽本線の一部(大曲~秋田)のレール幅を改良工事で大きくして、新幹線が走れるようにしているのだ。
時間と空間を戻そう。二時間足らずで、盛岡駅に着き、車内アナウンス通り、列車が反対方向へ動き出した。なんだか変。戻っている感じがする。だが、もっと変なことに気づいた。線路に柵がない。スピードが遅い。待ち合わせとか言って、頻繁に停車する。なんだこりゃ~!車両は新幹線だが、内容的には<特急>だ。しかも<待ち合わせ>ということは、<単線>だ。
秋田新幹線<こまち11号>は、大宮駅から秋田駅まで、およそ三時間半だ。だが、大宮から盛岡まで二時間弱で着いた。となれば、あとの一時間半が、盛岡から秋田までの走行時間となる。これからまだ、一時間半も、たらたら行くのか、と思いながら、窓の景色を眺めた。山間部をぬって走っている感じで、何の面白みもない。雫石、田沢湖、角館、大曲と停車して、秋田駅には、予定通り、一時ちょい過ぎに着いた。
駅構内は閑散としていた。改札は<PASMO>で何の問題もなく、ピッと通過できた。東口から、長い階段を下りて、外に出た。駅前広場は、整備され広々としている。その分、さらに閑散としている。すぐ近くのNレンタカーまで、キャリーバックをごろごろ転がしながら歩いた。梅雨明け十日!雲一つない晴天、こりゃあ~、猛暑だな。
Nレンタカーの事務所に入って、手続きをした。予約は、14時からだから、四十五分ほど早い。その分、追加料金を¥1000、取られた。請求書が出てくる前に、何も説明がなかったので、少しごねた。係の若者は、ではいったん契約解除して、やり直しますかと聞いてきた。だが、この暑い中、時間をつぶす所もないし、すでに現地入りしているわけで、男鹿半島へ向けて、早く出発したかった。そのままでいい。カードで支払いを済ませ、用意してあった車に乗った。
出雲旅の時と同じだ。灰色の<スイフト>だった。ナビの操作などを、ちょっと教えてもらい、すぐに出発した。その際、<入道埼灯台>まで、高速でも一般道でも、あまり変わらない、と係の若者がアドバイスしてくれたので、一般道を選択した。どちらも、ほぼ58キロ、二時間弱の行程だ。
一時間半くらいだと思っていたが、二時間かかるのか!秋田に泊まらなくてよかったよ。それに、高速を使わないのなら、¥1000オーバーしたぶん、差し引きゼロだ。みみっちいことを思いながら、秋田の市街地を走り抜けた。道は広く、きれいな大きな町だった。
その時は思わなかったが、帰路、同じルートを通った時に、ふと思った。市街地に、これだけ大きな道があるのは、<空襲>を受けたんじゃないか、と。いま調べたら、カンが当たっていた。
1945年8月14日の夜から、翌15日にかけて、B29が130機飛来。海岸沿いにある製油施設と、市街地が被害を受け、250人以上が犠牲になった。<土崎大空襲>。大日本帝国が、米軍から受けた、最後の空襲だった。そういえば、自分の住んでいる埼玉県の熊谷も、同日、ほぼ同時刻に空襲を受けている。<熊谷空襲>。1945年8月15日。敗戦の日に、ここでも、多くの人命が失われている。この二つの空襲は、今から76年前だ。かなり前とはいえ、自分の生まれる、ほんの七年前のことだ。自分にとっては、そんなに昔のことじゃない。
市街地を抜けると、左手に海が見えた。海岸沿いに、大きな施設が見える。そう、秋田には、たしか海底油田があったはずだ。となると、あれは製油施設だな。片側二車線の広い道を、気分良く、さらに行くと、巨大な<なまはげ>の立像が二体、目に入った。ハンドルを左に切って、<男鹿総合観光案内所>の駐車場に入った。
車の外に出た。暑い!キャリーバックからカメラを取りだして、巨大な<なまはげ>を何枚か撮った。正面からは、逆光だ。うしろに回って、出刃を振り上げている後姿も撮った。おもしろい!近寄って、どんな材質でできているのか、触ってみた。硬かったが、樹脂のような感じだった。
施設の中に入り、お土産を物色した。小さな<なまはげ>の置物があった。中に何か入っていて、カラカラと音がする。¥770の、手のひらに収まる程度のものを買った。ただ、いま思い出してみると、顔が赤いのと青いのがある。たしか、どちらも出刃と桶を持っていたような気がする?
帰宅後に調べてみると、例の、巨大な<なまはげ>も、ネットで出てくる<なまはげ>の画像も、ほぼすべて<出刃と桶>は青い<なまはげ>が持ち、赤い<なまはげ>は<御幣=ごへい>という棒の先にひらひらした紙がついているものを持っている。ちなみにこの<御幣>は、神様であることの印らしい。
ベッドの背もたれの上を見た。ニャンコの白い骨壺と愛知旅で買った<三毛の招き猫>が並んでいる。その前に、紀伊半島旅で買った那智黒石の小さな招き猫と顔の赤い<なまはげ>がいる。やはり<出刃と桶>を持っている。これは、おかしいだろう?赤い<なまはげ>は<御幣>を持っているはずだ。これは、たんなるミステイクなのか?あるいは、素材的に<御幣>を作るのが難しかったのか?
ヒマなんだから、真相について調べることもできるだろう。だが、めんどくさい。それに、<なまはげ>は地域、地域によって、多種多様らしい。赤い<なまはげ>が<出刃と桶>を持っていることも、許されるのだろう。
なお、この<出刃と桶>は、炉端で低温火傷したときにできる<かさぶた>を削り取って入れるものらしい?しかし、この説明は説得力に欠けるな。<出刃>を振りかざす<なまはげ>は、暴力的で、恐怖を呼び起こす。持っている<桶>は<出刃>で切り刻んだ、人間の部位を入れるものではないのか?怖いもの見たさが、恐ろしいイメージを喚起する。
あと、赤い方が爺、青い方が婆で、二人は夫婦らしい。<なまはげ>が夫婦であったというのも、驚きだが、頭が大きくて、わけのわからないアイテムを持っている姿は、アニメのキャラクターのようで、滑稽味がある。しかし、幼児にとっては、今でも恐怖の対象だし、一方、大人にとっては、郷愁の産物となっている。自分も、<なまはげ>には、なんとなく魅かれるところがある。
巨大<なまはげ>を後にして、男鹿市の手前で<なまはげライン>に入った。その際、どこの港なのか?海に突き出た長い防波堤の先に、灯台が小さく見えた。帰りに寄ろうと思った。(この防波堤灯台は、船川港の<船川防波堤灯台>だと、今調べてわかった)。小一時間、さほど山深くもない山間部を、貸し切り状態で走った。そのうち、点在する民家もなくなり、少し急な登りになった。
さらにナビに従っていくと、道は平らになり、半島の上に上がったようだ。と、<男鹿温泉郷>という看板が見えた。なるほど、宿はあっちの方だなと思いながら、さらに直進。すると、右側にチラッと海が見えた。木立があり展望はよくない。どうやら絶壁になっているようだ。
前を向くと、本格的なキャンピングカーがたらたら走っている。道が狭いから、追い抜くことは危険だし、それに億劫だ。と、道の両側に民家が建てこんできた。灯台が近いなと思った。案の定、正面の建物の上に、白黒の灯台の上半分くらいが見えた。やっと着いたよ。途中、ちょっと寄り道したものの、秋田駅から入道埼灯台まで、やはり二時間ほどかかっていた。
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2023
11/07
Tue.
07:43:25
<日本灯台紀行 旅日誌>2021年度版
Category【灯台紀行 男鹿半島編】

<日本灯台紀行 旅日誌>男鹿半島編
#2 一日目(2) 2021年7月14日
出発
今年の梅雨入りは早かった。五月の下旬あたりから、天気がよくなかったので、梅雨明けは早いだろう、と予想していた。案の定、七月の中旬からは、天気予報に、晴れマークがずらっと並んでいる。一瞬迷った。灯台に行くべきか、行かざるべきか!灯台熱も、以前ほどではなく、それに、金もかかるしな。とはいえ、このまま、ずるずると、なし崩しのような、ジャズと読書の日々もつまらない!
ま、気分転換に、行ってみるか、と決断した。もっとも、気分的なことや金銭的なこと、それに体力的なことも考慮して、旅の日程は縮小した。つまり、灯台旅の流儀を少し変えた。まず、標的としている灯台だけを撮る。そのほかの、近辺の灯台には目をつぶる。次に、実際の撮影期間は、一日にする。前後の日は、予備として考える。
こうすれば、灯台旅は二泊三日に縮小できる。一日目は移動と予備としての夕方撮影、二日目は朝から晩まで撮影、三日目は予備としての午前撮影と移動。期間が短ければ、体力的にも金銭的にも、負担は少ない。これで、ますます気が楽になった。
ということで、七月十二日に、旅の手配と準備を始めた。例の旅館が、ちょうど、14日、15日と連泊できる。新幹線もレンタカーもネットで予約できた。旅の準備も、二時間ほどで終了。前日に、パッキングすればいいだけになった。それに、行くところが一か所なので、事前の調査も、さして時間がかからない。
入道埼灯台の、ネットにあげられている画像をざっと見て、どのあたりがベストポジションなのか検討した。だが、以前のように、綿密には検討しなかった。ま、熱が冷めている証拠だ。それに、実際に行ってみないことには、正確な判断はできないだろう。いや、現地に行っても、正確な判断などできないのだ。
とにかく、入道埼灯台は、周辺が芝生の広場で、その周りを360度見て回れば、何とかなるだろう。あ~あ、いつもの感じだ。かなり<てきとう>になっている。
小学校での担任のY先生に、学級委員でありながら、掃除をさぼったり、適当な学習態度がよくない、というようなことを通信簿に書かれた。なんだか、その時は、叱責されたような感じがして、気持ちが重かった。ややトラウマにもなっていた。だが、いま思えば、一般的な価値観で、人間を一刀両断にしているわけで、いまでは<てきとう>ということが、それほど悪いこととは思えない。むしろ、<てきとう>である方が、よいこともある。ま、思想、哲学的には、昭和の小学校の教員をはるかに超えてしまったわけだ。
灯台撮影に関しては、かなり<てきとう>に考えて、次に進んだ。日程については、少し書き残しておこう。14日9:32分の大宮発、秋田新幹線<こまち11号>に乗る。そのためには、七時過ぎには自宅を出て、最寄り駅から電車に乗らなければならない。さらに、逆算して、五時半に起きれば、七時には出られる。さらにさらに、五時半に起きるということは、前の日、夜の九時に寝ればいいわけだ。
さてと、前置きが長くて、失礼しました。ついに、第十回目の灯台旅、男鹿半島旅が始まる。前の晩は、予定どおり、すべての準備を完了して、夜の九時にベッドに入った。だが、眠くない。当たり前だ。いつもは、だいたい、午前零時前後に寝ているわけで、寝られるはずがない。で、最近の習慣で、ベッドで読書。ジャズ関連の本だ。うかうかと読んでしまい、あっという間に、十一時近くになってしまった。いかん、いかん。消燈。
灯台旅も慣れてきたので、しかも、車で高速運転するわけでもないので、気楽だった。以前のように、遠足の前の小学生みたいに、緊張して眠れないということはなかった。とはいえ、一、二時間おきに、夜間トイレ。これは、ま、いつもの習慣だ。で、ふと目覚まし時計を見たら、すでに午前五時過ぎになっていた。よく寝られた方だ。眠気はない。すっと起きた。
整頓、洗面、朝食・豆腐入りのお茶漬け、バナナ、牛乳。排便は小量。そのあとに、着替えた。どんな<出で立ち>なのか、たまには書き記しておこう。
足元は<ダナー>の灰色っぽい軽登山靴。中に、こげ茶色の厚めの靴下をはいている。ズボンは、おなじみになった<ギャップ>のホワイトジーン。ウェストが少し緩いので、太目の黒いベルトをつけた。上は、中に茶色のTシャツ、羽織るものとして、同じく茶色の長袖シャツ。これは、やや麻っぽい風合いである。あと、首に、浅黄色の綿マフラーを巻いた。ま、これは手ぬぐい代わりだな。自分で言うのもおかしいが、全体的に若作りで、70歳にもなろうとしている爺には見えないかもしれない。頭の毛も黒々としていているしね。
あとは小物。ベルト通しに磁石と腕時計をくっ付けた。<エース>の黒のポシェットを肩掛けし、そのストラップに黒い袋を取り付け、中に<ニコン>のコンデジを入れている。青色スカイのバックパックを背負い、キャスター付きの、飛行機持ち込み可能な黒いカメラバックを手で引きながら移動するつもりである。
いざ、出発。おっと、ニャンコに<行ってきます>というのを忘れた。だが、もういいだろう。<ペットロス>からは回復していたし、ニャンコのことは、ほとんど思い出さなくなっていた。
移動1
大宮に着いたのは、八時過ぎだったと思う。通勤時間帯だったので、車内が混んでいた。一応、周りの目を気にして、バックパックを、前に抱えるように背負った。背中でなく体の前面に背負ったわけだ。かなり大きなものだったので、胸が圧迫され、息苦しいような気がした。が、がまんした。
車内でバックパックを、前に抱えるという習慣は、最近のものだ。通勤、通学の際に、手持ちのバックではなく、バックパックを背負うことが常態化した結果で、車内での小競り合いが増えたからだろう。たしかに、自分も、電車の中で、背中をどんと押されるような経験をしたことがある。バックを背負っている奴は、それも、バックが大きければ大きいほど、他人にぶつけていることに気づかないのだ。
狭い車内、他人とぶつかったら、目礼したり、すいませんとか何とか、ちょっとした言葉をかけあえば、全然問題はない。だが、ドカンとぶつかってきて、知らん顔、いや本人は気づいていないのだから、知らん顔ではないのだが、ともかく、シカとされると、やや気分が悪い。小心で、臆病な自分でさえ、虫の居所が悪ければ、文句のひとつでも言いたいところだ。そんなこんなで、多少混んでいる電車では、バックは前に抱えるというマナーが定着したのだろう。自分もそれに従って、朝の通勤電車に乗り、大宮駅に着いた。
大宮の駅は、久しぶりだ。きれいになり広くなっていたので、新幹線の乗り場はすぐにわかった。ポシェットから<PASMO>を取り出し、右手の掌の中に包み込むように持って、改札口の所定の場所に押し当てた。すると、ピッと音がして、小さなゲートが開いた。ほ~、ちゃんと通れたよ。
JR東日本の<えきねっと>というシステムで、事前予約していて、料金もすでに引き落とされている。PCで予約ができ、しかも、手持ちの<ICカード>で改札を通過できるなら、事前に駅まで行って、切符を予約したり、買ったりという手間が省け、かなり楽ちんだ。そういえば、以前、テレビでこのシステムのことを宣伝していたっけ。
だが、疑り深い性質であるからして、新しい物やシステムには、多少の警戒心が働く。心のどこかでは、なにか齟齬があって、通れなかったらどうしようと思っている。出発時刻の一時間以上も前に着いたのは、そうした不安が払拭しきれなかったからでもある。一時間もあれば、たとえ不都合があったとしても、処理できるだろう。
ちなみに、不安の源泉は、普通の切符ではなくて、15%割引の<トクだ値>という切符で予約したからだ。この切符は、列車、日時の変更ができない。しかも、乗り損ねたら、それでおしまい。払い戻しされないようだ。いや、全額ではないらしいが、とにかく、予約した<こまち11号>大宮発9:32には、絶対に乗らねばならないのだ。ま、金のことを考えなければ、絶対に乗らねばならない、ということはない。
もっとも、<PASMO>で改札を通過できたといっても、秋田駅ですんなり出られるという保証はない。まったく疑り深い性質だ。だが、秋田駅まで行ってしまえば、齟齬があろうがなかろうが、そんなことは、たいした問題ではない。
で、案ずるよりは産むがやすし。あっさり、新幹線乗り場へ入った。出発までには、まだ時間がある。ホームには上がらず、待合室のような、広場のような所で、時間調整だ。ぐるっと見まわし、ちょうど、案内板が見えるベンチが空いていたので、そこに腰掛け、くつろいだ。
案内板には、まだ<こまち11号>の文字はなかった。ぼうっとしていると、七、八メートル離れたとここで、爺たちが三、四人、立ち話をしている。それもでかい声で。マスクはしているが、騒々しい。このコロナ禍の中、公共の場所で、なぜあんなにでかい声でしゃべっているのか、やや不快である。思うに、声のでかさと知性とは反比例するようだ。いや、これは偏見だろう。
さてと、九時十分も過ぎた頃、案内板の中の<こまち11号>の文字を、再再度確かめ、長いエスカレーターに乗って、ホームへ上がった。マナーに従って、エスカレーターの左側に立ち、キャリーバックは、立ち位置の一段上に置いた。お行儀がいいことだ。
出発時間には、まだ二十分も早いが、数人すでに待っている。まずもって、日本人は気が早い。並ぶほどでもないので、ベンチに腰掛けた。ふと思いついて、そばの自販機で、アルミボトルのコーヒーを買った。一口、二口飲んで、ちゃんと蓋を閉めた。あとは、車内に持ち込み、飲むつもりだ。
九時二十分頃に、鼻先がひゅっと赤い<こまち>がホームに入ってきた。あわててコンデジを取り出し、一枚撮った。自分の後ろには、大きなバックを抱えた、大学生たちが五、六人いた。おそらく、野球部か何かの合宿だろう。<14号車>と案内のある場所から、列車に乗った。
急かされるような感じで、列車内の通路に立ち入ったが、座席番号をど忘れして、一瞬、通路で立ち往生してしまった。後ろに人の気配がしたので、すぐに座席側に入って、大学生たちをやり過ごした。その後、手帳で座席番号を確かめて、再度通路を歩き出す。と、今度は大学生たちが、通路で、荷物を棚にあげたりしていて、通れない。無理して、横を通り抜けようとしたら、後ろから、すいません、というような声が聞こえた。あたふたしている後輩の非礼に気づいて、先輩がフォローしたわけだ。まあ~、若いのに、礼儀正しい。いや、むしろ、若い奴の方が、中高年より、礼儀正しいような気がする。ただし、若い女は、全くダメだな。いや、これも偏見だね。
窓際の席に落ちついた。あっという間に<こまち11号>は走りだした。黄色っぽい、クッションのいい座席で、足元も広い。ひじ掛けの内側に黒いボタンがあり、押すとリクライニングできた。むろん、リクライニングするときに、後ろを確認した。座っている人がいたら、一言、ちょっと下げます、とか何とか言うのがマナーだろう。ただし、このマナーは、必ずしも守られていないような気がする。いきなり、前の座席が、がくんと倒れて来る、というような経験が、自分にすら、二、三度ある。
今回は、そんな気遣いは無用。コロナ禍での、平日の秋田行きだ。ちらっとうしろをふり返えると、例の大学生のグループのほかは、四、五人しか乗っていない。ガラガラだ。軽登山靴を脱いで、くつろいだ。そのあとは、条件反射的に、窓の外の景色を眺めていた。これから旅が始まる、というようなワクワク感は、まるでなく、気分的には平静だ。ただ、久しぶりの新幹線、やっぱ速いなと思った。前橋ありからは、さらにスピードが上がり、風を切る音が大きくなる。すこし怖い感じがした。
いま調べたら、<こまち>の最大スピードは、320キロくらいあるらしい。どおりで、一時間ほどで仙台に到着してしまうわけだ。
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2023
11/04
Sat.
08:59:06
<日本灯台紀行 旅日誌>2021年度版
Category【灯台紀行 男鹿半島編】

<日本灯台紀行 旅日誌>男鹿半島編
#1 一日目(1) 2021年7月14日
プロローグ1.2
前回の出雲旅から、ほぼ三か月がたっている。この間、何をやっていたのか?正直に言えば、ほとんど何もやっていない。いや、ちゃんと生活していた、ともいえるだろう。何回か、旧友と日帰りで温泉に行ったし、その旧友に刺激されて、五十年ぶりに、またジャズを聴き始めた。
あとは、前々回の紀伊半島旅、前回の出雲旅の撮影画像の選択、補正だ。旅日誌を脱稿し、撮影画像の補正を終えてから次の旅に出る、という自分で決めた約束事を破って、前回も、前々回も旅に出てしまった結果である。つまりは、灯台旅二回分の撮影画像の補正をしなければならなかったわけだ。ちなみに、この時点ですでに、<旅日誌>の方は、書くことを放棄していた。理由はいろいろあるが、詳細はあとにしよう。
蛇足ながら、もう少し正確に言えば、前々回の紀伊半島旅から帰ってきて、撮影画像の補正だけは、いちおうやったのだ。<いちおう>というのは、いつもの画像編集ソフトを使わないで、PCに付属している簡易的な画像編集アプリを使って、手を抜いたというか、手間を省いたのだ。
実際のところ、時間も短縮できたし、労力も、いつもよりかからなかった。だが、うかつにもその時は気がつかなかったが、画像の解像度が低くて、とてもじゃないが、画像投稿サイトにアップできる代物ではなかった。したがって、ま、それなりの手間をかけた補正作業が、すべて無駄になってしまったわけだ。
このことに、かなりうんざりして、紀伊半島旅の画像補正をほったらかして、いわば、宿題を残したままで、出雲旅に出てしまった。本来ならば、この宿題は、出雲旅から帰宅した後に、いの一番で果たさねばならぬものだったが、帰宅後、一週間くらいは、持病の<痔>が悪化して、PCに向かっての、神経を使う補正作業ができなかった。
宿題の量が、倍増しているにもかかわらず、体力的にそれらに取りかかれない。気力的にも、旅疲れということがあって、あのときは、なんだか、何もかもいやになってしまった。ちょうど、試験で<O点>でもいいや、と開き直った感じだ。なにしろ、宿題などはやりたくない、という気持ちが自分を圧倒していた。
こうなると、元も子もない話になってしまうのが、いつものことだ。灯台撮影そのものに対する、懐疑が出てきた。金と時間と体力とを使って、と言いたいところだが、<時間>に関しては除外しよう。<時間>はいくらでもあるのだ。とにかく、灯台旅、旅日誌、灯台写真に対する熱が少し冷めてしまったようなのだ。これには、ニャンコを看取って、ほぼ一年がたち<ペットロス>からも回復したことが影響しているのだろう。
それと、撮影旅行としては、紀伊半島旅が八泊九日、出雲旅は五泊六日で、日程が長かったこともあり、灯台撮影そのものに対して、体力の限界を感じたことも、<懐疑心>ができきた要因のひとつだと思う。
それならば、これまでの撮影流儀を変更して、手を抜けばよかったのではないか。しかしそれができない。その辺は、融通が利かない、愚図だ。どうしても、ゼロか百か、という思考回路が優勢で、一度決めたことを、状況に応じて変化させるということができない。それが、いまにして思えば、人生の挫折と喪失感につながっている。ま、いい。話がでかくなりすぎた。
前回の出雲旅から、今回の男鹿半島旅まで、三か月空いてしまった理由は、おそらくこうだ。<ペットロス>による心の空白を<灯台旅>に夢中になることで、いちおうは乗り切ったわけで、<灯台旅>の実存的な必要性が後退したのだ、と。悲しみや苦しみから逃れるために、なにかに夢中になる必要がなくなったのだ。撮影画像の補正作業に身が入らずに、たらたら、だらだらと三か月過ごしてしまった所以である。
ところで、目先の課題は見失っていたが、目先の楽しみを見つけたことも確かで、そのことが<灯台旅>への執着をさらに弱めた。高校生の頃に熱中して聞いていた<ジャズ>だ。しかも、今回は、旧友が同好の志であることから、彼とジャズ談義を楽しむことができるようになった。趣味というものは、同好の友だちがいると、余計に面白くなるもので、アマゾンやユーチューブで、終日ジャズを聞くようになってしまった。
それに、高校生の頃もそうだったが、ジャズ関連の本を読むようになった。自分にとって<読書>というのは、一種の<麻薬>と同じで、その時間は<人生の憂さ>を忘れさせてくれる。だが、その<読書>は、二十年前に眼病を患い、目が悪くなってからは、ほとんどしていない。目が疲れるし、実際問題、細かい字が見えにくいのだ。
ところが、眼病が寛解した今、意外にすらすらと、疲れもせずに読むことができた。昔の習慣を取り戻せたわけで、要するに、体力の限界が試されるような、灯台旅に出なくても、ジャズと読書で、その日その日を、やり過ごすことができるようになったのだ。
一時は、灯台旅など、もうやめてしまおうかと思ったりもした。だが、倍増した宿題、すなわち、灯台旅二回分の撮影画像の補正を、まがりなりにも、すべて終えた時、なんだか、宙ぶらりんな気持ちになった。灯台旅を、ここでやめるわけにはいかないだろう。たとえ、灯台熱が冷めたとしても、だ。
というのは、かなり近い将来、おそらく、三年か五年か、あるいは、三か月先かもしれない、体力的な問題で、否応なく、灯台旅ができなくなることが予想されるからだ。まずもって、灯台は辺鄙なところに立っていることが多い。そこまで行くことが大変だし、その撮影となると、急な岩場を登ったり下りたりと、体力勝負という一面もある。この一年の灯台行で、いやというほど実感したことだ。
<健康年齢>という概念があるが、自分の場合<灯台年齢?>はおそらく、あとわずかであろう。それに比べて、ジャズと読書は、灯台旅に行けなくなっても継続できる趣味だ。そんなことを考えているうちに、やはり、また灯台旅に出たくなった。要するに、灯台旅ができるのは、今しかないのだ。しかしながら、旅の当初の動機や目的は、すでに過去のものとなっていた。<ペットロス>は解消していたし、絶景を求めての<写真撮影>にも、さほど魅力を感じなくなっていた。
それよりは、車を運転し、あるいは新幹線や飛行機に乗って、最果ての灯台まで行き、写真を撮ることが、いつまでできるのか?自分の、その体力と気力の限界を見極めたいと思った。灯台旅ができなくなるまで、灯台旅を続けることが、灯台旅の目的となったのだ。
本末転倒と言えないこともない。だが、灯台に魅せられて、灯台を見に行くとか、写真を撮りに行くとか、表層的な、世間向けの言い訳は、もういいだろう。灯台旅を続けながら、灯台の写真を撮り続けることは、すなわち、自分と向き合うことだ。また、話がでかくなりすぎた。能書きはこのくらいして、先に進もうではないか。
プロローグ2
さてと、世の中、四回目の緊急事態宣言が出されている。自分の住んでいる地域にも、蔓延防止措置が発出されている。コロナだよ!もう一年半以上にもなる。もっとも、こっちは、そんなことにはお構いなしに、灯台旅を九回も敢行している。幸い、感染はしていない。だいいち、感染しそうな所へは行かないし、臆病だから、マスクとか手洗いとか、神経質なほど徹底している。とはいえ、感染しない、という保証はない。
七月の三十日に、コロナの一回目のワクチン接種が決まっている。十回目の灯台旅はそのあとだ、と心づもりしていた。だが、予想に反して、梅雨が早くあけそうだ。次なる獲物?は、すでに決まっていた。男鹿半島の先端にある、入道埼灯台である。白黒の灯台で、ロケーションがいい。それに、秋田県には足を踏み入れたことがないし、<なまはげ>のいる男鹿半島なんて、面白そうじゃないか。
ただし、だ。宿の予約に難儀した。以前にも書いたが、宿は、灯台に近ければ近いほどいい。これは説明する必要ないだろう。で、灯台に近い所に、といっても五、六キロ離れているが、男鹿温泉郷があり、そこの旅館に泊るのがベストだ。
だが、旅館なので、お一人様での予約プランがない。宿泊できない。ただ一軒だけ、お一人様が可能な旅館がある。一泊二食付きで¥11500、ま、安い方だ。しかしながら、天気との兼ね合いもあり、なかなか二泊、三泊といった連泊の予約が取れない。
男鹿半島、入道埼灯台へは、新幹線で秋田駅まで行き、レンタカー移動となる。秋田駅から入道埼までは、約58キロ、一時間半以上はかかるだろう。秋田駅周辺にはビジネスホテルがたくさんあるので、予約は取りやすい。だが、いかんせん、灯台まで遠すぎる。往復三時間、四時間前後の道のりは、限界を超えている。と、思いついて、能代駅の付近も検索してみた。能代から入道埼までは、約50キロ、ネットには、一時間と書いてあるが、一般道なのだから、やはり、一時間半くらいはかかるだろう。
秋田駅も能代駅も、ダメ。ほかにないのか?これらの街と灯台の間には、もちろん、何軒か旅館・ホテルのようなものがある。が、お決まりのように、お一人様では泊まれない。まれに、一、二軒、お一人様プランもあるにはあるが、高い!一泊二食で¥18000もする。けち臭い話だが、男鹿半島へ行くには、新幹線とレンタカーで、五万以上かかるのだ。節約できる箇所は、宿泊場所しかない。結局、例の男鹿温泉郷の、お一人様プランのある旅館しかないわけだ。
四月の後半に出雲旅から戻ってきて、あっという間に五月、六月が過ぎ、七月になった。梅雨真っ盛りではあるが、画像補正をなんとか終えると、気持ちが、また灯台旅に向いてきた。旅日誌はと言えば、とうとう書かなかった。もっとも、三月の大旅行、紀伊半島旅に関しては、当初は書く気でいた。が、なんとなく気乗りしないまま、ずるずると時がたち、書こうかなと思ったときには、時間がたちすぎていて、書くことが思い浮かばなかった。
四月の出雲旅では、旅に出る前から、旅日誌は書かないことにしていた。そうだな、旅日誌のことについて、少し触れないわけにはいかないだろう。
何はともあれ、2020年の七回目までの灯台旅に関しては、長文の旅日誌を書いた。まったくもって、精も根も尽き果てるような作業ではあったが、書き抜いた。2021年の八回目の旅、八泊九日の紀伊半島旅に出かけたのは三月だった。前の旅、愛知旅からは、おおよそ四か月くらいたっていた。年初から、コロナの緊急事態宣言が出ていたし、寒い!ということが、旅に出ることをためらわせていた。むろんそればかりでもなかったと思うが、いまでは、よく思い出せない。
とにかく、その間に、ふと思いついて、旅日誌を朗読して、ユーチューブにアップしようとした。試作を作り、聞いてみた。まるっきり面白くない。朗読など、とんでもない!文章そのものが、面白くないのだ。そんな文章のために、何百時間も費やしたなんて、まったくもって、ばかげている。ま、百歩譲って、自分だけの覚書、という意味でなら、冗長な文章も許せるだろう。
しかし、この長文の旅日誌は、ブログにアップし、HPにも掲載するつもりだった。自分のためだけじゃない。人様に見せる、読んでもらう、発表するつもりで、書かれたものだ。だいいち、そうした動因なしには、長文の旅日誌など、書けなかったろう。
自分の文章を、自分で朗読してみて、その浅薄さ、稚拙さを、認めたくなかったが、認めざるを得なくなったのだ。
しょうがないだろう、要するに、書きなぐった文章だ。それをおこがましくも、なにかひと仕事しているような気分になって、アップしていたのだから、バカに付ける薬はない。少しの間、自己嫌悪に陥った。そして、旅日誌は、もう書くまいと思った。
話しを戻そう。七月の初旬に、灯台旅二回分の画像補正を終え、ほっとした。とりあえず、やるべきことはやった。宿題は終わったのだ。しかし、ある意味では、表層的な、目先のやるべきことが終わっただけで、本当にやるべきことは、依然として残っていた。ふん、やるべきことなんか、本当はないんだが、やるべきことがないと、どうにもこうにも、身を持て余してしまう。
本当にやるべきことは、と自分に言い聞かせていることは、<モロイ朗読>の新・改訂版を作ることだ。あるいは<マロウン>の朗読、あるいは<名づけえぬもの>の朗読だ。
いちおう、三つとも、ちょっとは手を出してみた。<モロイ朗読>新・改訂版は、始めの<1-1 書き出し>の録音は完了した。しかし、なぜか、その後が続けられない。<モロイ>新・改訂版は、一番実現可能な<やるべきこと>ではあるが、それとて、今の精神状態では<そこ=モロイ>に戻っていくのが辛いのだ。
<マロウン>に関しても<1-1>は朗読して録音した。だが、こちらは、どうにもこうにも、重すぎる。なにしろ、死の床についている爺さんの独白だ。絵空事で、文字を音声化することならできる。だが、言葉=文章を、自分に引き付けて発語=朗読するには、それなりの覚悟というか、感情移入が必要だろう。今の自分には、その覚悟もないし、死の床についている爺さんへの感情移入もできない。ま、いつかは、できる時が来るさ。あと五年もたてば、俺だって、病気や死が現実問題になるんだ。ということで、あっさり保留にしてしまった。
ついでながらに書いておくと、<名づけえぬもの>も、少し朗読した。しかし、こっちは、<マロウン>よりも、なお遠い。雲をつかむような感じだ。朗読なんて、とんでもない!ということで、こちらもあっさり保留にした。
ということで、やはり、目先の課題としては、灯台旅が照準された。旅の準備をし、実際に旅をするとなれば、頭の中の<空白な時間>は霧散するし、ウソでも、偽善でも、何かをやっていれば<やるべきこと>からは解放される。いや、<やるべきこと>をやらない口実にはなる。いや、多少先延ばしすることができるのだ。
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