此岸からの風景
<日本灯台紀行 旅日誌>オヤジの灯台巡り一人旅 長~い呟きです
2020
06/24
Wed.
10:54:12
<灯台紀行・旅日誌>2020
Category【灯台紀行 犬吠埼灯台編】
<灯台紀行・旅日誌>#4
そこで、再び脳裏に浮かび上がってきたのは、灯台巡り、全国の有名な灯台を撮りに行くという計画だった。この計画は、父親を看取った後に思いついたもので、そのために車を買い替え、実際、原発近くの御前崎ルートインに連泊し、御前崎灯台、掛川灯台、清水灯台などを撮影した。そして三泊四日の旅の帰りは、高速を約280キロ走って一気に帰って来た。もっとも、新しい車に慣れていないということもあり、かなり疲れた。思い出すだけでも、帰路の運転はうんざりだ。
…ま、そんなこともあったのだ。その当時は、旅に行くたびに、ニャンコの世話を誰かに頼まなければならず、それのみか、ニャンコのことが気になってしようがない。さっと用を済ませて、なるべく早く帰ってきたかった、というのが偽らざる本音だ。
それに、そのあともいろいろあって、灯台旅の熱はいったんさめ、ほとんど忘れかけていた。それが今になって再燃したのには、次のような理由がある。
先日、ユーチューブに<荒川写真紀行2018>というスライドショーをアップした。エリックサティーのジムノペディを延々、といっても30分ほどだが、繰り返し流しながら、背景に自分の写真を映し出すという趣向だ。
<荒川写真紀行>の写真は、雲と空と、川の流れなどが主題になっていて、ほぼ三か月間、晴れた日には必ず川に出て撮影したもんだ。その何というか、写真たちとサティが、自分で言うのもなんだが、よくマッチしていて、かなり満足している。
ちなみに、サティを繰り返し流すという趣向は、若かりし頃、影響を受けた太田省吾という演出家が<水の駅>という作品で使っている。当時は、ちょっとルール違反じゃないの、とやや懐疑的だったが、四十年ほどたった今でも、その舞台が脳裏に焼き付いている。やはり、感動していたのだと思う。
太田さんは、たしか六十台で亡くなってしまい、主宰していた前衛劇団<転形劇場>も、ほぼ忘却の彼方だ。だからパクってもいいのか、というわけでもないが、自分が若かりし頃、唯一、入ろうかなと思った劇団の、尊敬する演出家へのオマージュ、ということにして、勘弁してもらおう。
あ~、話がずいぶん脇にそれた。五月二十七日水曜日、旅の当日は六時に目が覚めた。さっと起きて軽く食事。そのあと、なんやかんや、いろいろやって、たとえば、家中のコンセントを全部抜いたり、持ち物表をチェックしたりで、ぐずぐずしてしまい、家を出たのは八時すぎだった。
ニャンコを火葬にしたあとは、ベッドの背もたれの上に、白い骨壺を置いて、時々声をかけたりしながら、じっとコロナ騒動が収まるのを待っていた。足止めを食らっていたのだ。五月中は無理だろうと思っていたが、急に政府の<緊急事態宣言>が解除された。といっても、他県への移動はどういうわけか<自粛>。だがもう我慢の限界を超えていた。ちょうど、木・金と千葉県銚子方面には、晴れマークがついている。ほぼ衝動的に飯岡灯台近くの宿を三泊予約してしまった。

そこで、再び脳裏に浮かび上がってきたのは、灯台巡り、全国の有名な灯台を撮りに行くという計画だった。この計画は、父親を看取った後に思いついたもので、そのために車を買い替え、実際、原発近くの御前崎ルートインに連泊し、御前崎灯台、掛川灯台、清水灯台などを撮影した。そして三泊四日の旅の帰りは、高速を約280キロ走って一気に帰って来た。もっとも、新しい車に慣れていないということもあり、かなり疲れた。思い出すだけでも、帰路の運転はうんざりだ。
…ま、そんなこともあったのだ。その当時は、旅に行くたびに、ニャンコの世話を誰かに頼まなければならず、それのみか、ニャンコのことが気になってしようがない。さっと用を済ませて、なるべく早く帰ってきたかった、というのが偽らざる本音だ。
それに、そのあともいろいろあって、灯台旅の熱はいったんさめ、ほとんど忘れかけていた。それが今になって再燃したのには、次のような理由がある。
先日、ユーチューブに<荒川写真紀行2018>というスライドショーをアップした。エリックサティーのジムノペディを延々、といっても30分ほどだが、繰り返し流しながら、背景に自分の写真を映し出すという趣向だ。
<荒川写真紀行>の写真は、雲と空と、川の流れなどが主題になっていて、ほぼ三か月間、晴れた日には必ず川に出て撮影したもんだ。その何というか、写真たちとサティが、自分で言うのもなんだが、よくマッチしていて、かなり満足している。
ちなみに、サティを繰り返し流すという趣向は、若かりし頃、影響を受けた太田省吾という演出家が<水の駅>という作品で使っている。当時は、ちょっとルール違反じゃないの、とやや懐疑的だったが、四十年ほどたった今でも、その舞台が脳裏に焼き付いている。やはり、感動していたのだと思う。
太田さんは、たしか六十台で亡くなってしまい、主宰していた前衛劇団<転形劇場>も、ほぼ忘却の彼方だ。だからパクってもいいのか、というわけでもないが、自分が若かりし頃、唯一、入ろうかなと思った劇団の、尊敬する演出家へのオマージュ、ということにして、勘弁してもらおう。
あ~、話がずいぶん脇にそれた。五月二十七日水曜日、旅の当日は六時に目が覚めた。さっと起きて軽く食事。そのあと、なんやかんや、いろいろやって、たとえば、家中のコンセントを全部抜いたり、持ち物表をチェックしたりで、ぐずぐずしてしまい、家を出たのは八時すぎだった。
ニャンコを火葬にしたあとは、ベッドの背もたれの上に、白い骨壺を置いて、時々声をかけたりしながら、じっとコロナ騒動が収まるのを待っていた。足止めを食らっていたのだ。五月中は無理だろうと思っていたが、急に政府の<緊急事態宣言>が解除された。といっても、他県への移動はどういうわけか<自粛>。だがもう我慢の限界を超えていた。ちょうど、木・金と千葉県銚子方面には、晴れマークがついている。ほぼ衝動的に飯岡灯台近くの宿を三泊予約してしまった。

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